魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相第四巻

2007-08-21 10:48:13 | 魂魄の宰相の連載

二、強兵の方法(その②)

人は農村の現実を良く理解して無いので、盗賊の第一の目標が裕福な家であると誤って思い込み勝ちだが、寧ろ貧乏人が強奪されることが多かったのであり、その理屈は至極簡単なことで、金持や富豪は金を沢山持っているのは当たり前だが、彼等の殆どの者達が封建官吏や軍の中隊と懇意にしていたので、盗賊もそう簡単に押し込むことが出来ず、今様に言えば、対費用効果に見合う危険があり過ぎるということであり、況してや彼ら(金持や富豪等)自身が蔭で盗賊を支えていたという見方もあり、何も力を持た無い農民はあがらう力が無いので盗賊にとっては思うが侭に荒せる対象であり、封建官吏も蹂躙されることが無かったので訴えを一々相手にするのを面倒くさかったので(どこかの国の官憲に類似?)、彼らは何処にも訴えようが無く、その上冤罪の苦しみまで背負わされ、略奪に次ぐ略奪を受けたのだ。盗賊の総てが富者を殺して貧しい人を救済した梁山の好漢のようだったとは思うのは間違いで、実は昔から現在に到るまで総て、圧倒的多数の盗賊が皆良心の欠片も無い極悪非道で許すことが出来無い輩であったのであり、彼らは農民の貧しさに哀れみをもつ優しい心など微塵も持ってはいなかったのだ。汚職官吏、匪賊、悪質な地主などは、皆農民の上に立つ支配層であり、農民は搾り取って侮る対象でもあり、更に彼らは結託して、力で農民の怒りを抑え込み冷酷に農民に害を及ぼし、思う儘に利用して来たのだ。

曾鞏は新法に対して諸手を挙げて賛成し、然も、彼は保甲法に対しては何が何でも推進することを支持したのであり、大それたことには朝廷の公布施行前に彼は既に地方で試験的に其れを実行し、著しい成果をあげていたのであった。曾鞏の政治的業績を例に揚げると、保甲法に拠る保護が全ての良民の利益であったと認めることが出来、甚だしきに至っては「主に保護するのは貧しい農民の利益である」と言い切ったのであり、そんな事が出来たのも彼の背後には強力な組織力があったからだ。

保甲制を推進する中で、この制度を実行に移すと、軍隊を維持するのに十分の一か二程しか費用が掛から無く為り、大量に軍事費を節約する結果を出せたのは、民兵に取って代わって志願兵を募集したからだった。甲制度を実行した後に、禁軍の欠員は一切埋めることが無く為り、煕寧十年(1077)から数えると、この節約に依って余った費用は専ら各地方の刑獄司の監視の下に貯蔵して、国境の警備など差迫った必要に備えるのに十分な質量を確保出来、宋軍が禁軍を減しても戦力が決して弱めることは無く、保甲制の推進が確実に国家の財政状況の改善に寄与したことが証明されたのだ。

王安石が保甲制を推進しようとした時に、最大の難関とも言える圧力に直面した。保守派の言い分の一つには貧しい農民に武芸を教えれば、農民が盗賊に為ることを奨励することにもなり、保甲制度は、農民が武装化をし、その後反乱を企んで武装蜂起を起こす恐れがあり、社会治安を混乱させ兼ねないのだと言い、神宗本人も憂慮の念を懐いたことは確かであった。保守派の言い分には保甲制度が貧しい農民に益を齎すことが無いようさせようとしている意図が見て取れ、推進派と保守派両者の立場は農民の問題に対応する上で完全に異なっていたのだが、王安石は農民を信頼して、保守派は農民を恐れて用心したのだ;王安石が正直で温厚な農民が訓練を経た後に構成した民兵は十分に家と国の防衛の重任を担えると考えており、その戦力は狡賢くて横暴な遊民からなる禁軍を上回るかもしれないと信じたのに対し、保守派の多くは民兵が烏合の衆だと思っていて、敵前逃亡をして「敗走して総崩れになり負ける」に決まっているし、更には必ず内乱を起こすことに依って凶作の害をも起こし、国の災いとなるとの立場を採ったのだ。

兵法を以って禁軍を整理し、保甲法で民兵を訓練して、双つの手法を駆使し兵士の素質を高め、大胆に改革を進めたのだ。王安石は更に馬法を推進し、軍馬の供給を保証した。過去に措いては封建官吏が軍馬を飼育する責任を負い、其処から軍馬を調達したのだが、結局費用は極めて高くつき、然も効果は上がらず、馬が如何に痩せていて弱々しくても使わざるを得無かったのだ。馬法を実行した後には、民間が丹念に軍馬を養うことに変更し、賞罰をはっきりさせて、品質を保証することを求めたので、効果は大変上がったのだ。当初は戸当り一頭の馬を養わせ、裕福な家に見合っては二頭養わせ、その後政策を緩和する為に、その一部の馬を飼う専門経営者を育成するようにしたので、馬の品質は大いに高まり、費用も大いに下がったのだ。馬法の実施によって再び一つの事柄を護られなければならないことが証明され、国家による独占は有害でこそあり利益が無く、国営の事業は費用が高くつき、生産性も低く、民間が経営するのに優るものは無くて、専攻に傾く養殖に比し分散の養殖が勝るとしたのだ(此処には徹底した競争の原理を働かさなければなら無い。つまり、官が市場原理によって馬を購入することが徹底されて無ければなら無いのだ)。

将兵は、保甲によって兵を強くし使うことが出来て、馬法は強靭な馬を調達し使うことが出来たが、兵が強く馬が頑丈なだけでは未だ不足で、武器も極めて重要な要素と考えれたのだ。当時は武器の生産に対しての制度も無く、兵器は粗雑で、甚だしきに至っては紙で甲を作る者に遭遇することもあり、このような武器で如何に闘えようか。こんな体堕落では軍隊の戦力は無きに等しく、当然武具が充実して無いのが弱さの重要な原因の一つであったのだ。

この状況に直面して、王安石の息子の王は、「幾つかの衆を合併させる」を提案して、大規模生産による規模の利益の考えにより、効率を高めようとしたのだ;そして「陣地構築物の知識を持つ臣を選び出し、其の職の専門家を使用する」ことにし、事に通じている官吏に専門化させて事にあたらせる為には、専門の人が指導して初めて職務が安定するのであり、管理も強化出来るのである;然も「天下の腕利きの職人を募って、方々で職人の師と為って指導して貰い、朝廷内での常時ある仕事には専門の官を常勤させ、それからその実績を評価し、賞罰を与えれば良い」とも言い、天下の良質な職人を募集して、同時にその技量を検査することで、高い賞金で表彰して或いは罰して、さすれば如何なる者も競い合い、実際に品質を絶えず高まらせることが出来、逸品を造くり出すことも出来るのだとしたのだ。

神宗と王安石は理に適ったことだと思って、この提案を採用し、兵器の監理官を設け、専ら兵器の生産に責任を負わせた。兵器の監視官は全国の優秀な職人を集めて、発明や創造を奨励し、品質監理に注意を傾け、賞罰を明かにし、その下に八つの作司を設けて、更に城攻めに備えて東西二箇所に、火薬所、青銅の爨、石油や金属の精錬、大小の製材、大小の鞣革の作業、麻の作業、妓楼などの技術を広める為に十一の専門の仕事場を造り、部門に分かれて生産を実行させ、そして各々の法式に従って厳格に製作させたのだ。以上の外に兵器の監視官は、庫蔵を掌る官を馬の轡などの武具を作る作業所に配置した。馬の轡などの武具を作る作業所の規模は迚も大きくて、其処で作業する労働の兵や職人は粗万を数え、神宗は更に嘗てから堅持していた馬具の作業所と新しい其れと相互に競わせ、優劣を比較した。神宗自身も熱心に軍需産業の製品の製造技術の研究と進歩に関心を持ち、一部百十巻の専門書を書き残している。

兵器監を設置した後に、時折不正行為が発生し、人民に迷惑を掛けたのだが、然し武器の専門家は間違い無く製造を促進して、品質や数量は全く保証出来るもので、然も創造や発明をも発展させることにもなった。更に一層重要なのは、兵器監の設置は軍事の生産や装備を促進しただけでは無くて、更に採鉱、製錬、紡織などの関連産業を動かして、科学技術を推進させ、宋が未だに幼時期の工業にあったものを大きく発展させ、目を見張る推進を為す事に成功し、このことの重要性は兵器のみならず後世の生産自身の発展にも貢献した事で、その影響は極めて深遠で、今日も研究に値する重大な課題ともなっているのだ。

歴史に仮定は無いが、然し、歴史学者は推測することは出来る。若し新法がその後廃止されることが無かったならば、若し、この種の大規模な軍事工業が民需工業まで拡大していたなら、若し神宗と王安石のように新技術、新製品、新しく発明する指導的人物をもう少し多くすることに関心を持って支援したならば、宋が実戦に勝れ優秀な火器を生産することが出来ていて、それを用いる可能性があったとして、近代と比べても遜色の無い銃砲などの新型の兵器があったならば、更に長距離を進軍して一気に金や蒙古の騎兵を攻め込むことが出来ただろうか?若し宋の工業がもう少し発達していたならば、蒸気機関に類似した新しい機械を発明した可能性が無いとは言えず、或いは、当時石油を既に新しい燃料源に成らせていたかも知れ無い?全くの仮定とは言え、中国が如何して先に資本主義制度を出現させることが出来無かったのか?残念乍全くの仮説であり、これらが現実のものであったならば人類の歴史は書き替えられていただろう。

が、その後、効果ある施策を続けることが出来無かったので、ここ百年の痼疾を実際そう容易く根治することが出来ず、王安石と神宗の強兵の政策は富国の政策として成功すること無く、保守派は何が何でも多くの手練手管で妨害し、あらゆる手を使って改革を邪魔し、最後には神宗の崩御の後に全面的に否定を表明し、この政策を継続させることを出来無くしたのだ。

続く


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