愛と自由に満ちた幸福な生活は公平であるべし、人権・平等・平和が生きる人の権利

原理  自由・愛・公平
原則 人権・平等・平和
私が在る限り貴方は有り
貴方が在る限り私は有る

困った

2015年08月06日 | 平和の祈り 偶像再興
ブログ名を ”ZENの復活 人間の再興”とした今、70年談話 平和の祈り 偶像再興
で宗教の実体は祈りと解釈しました。
ブログ名が ”生きる事 命をつなぐ事 それが総ての価値の源泉”だった頃に、2013.10坂村真民
仏教者であっても死後の世界を論じないリアリティ
二度とない人生を真剣に生きた真民
 私の詩集は私そのもの であると
 
墓や墓前であっても、祈ることではない。死者を想う、思い出すことに意義があるになります。
 自分一人では無い、命の継承、謙虚、感謝が無意識であっても生じます。

 宗教は実現不可能な人々の願い、祈りを具現化する偶像(フィクション)
以下 70年談話再録
 古来、宗教は自然崇拝から発達し、実現不可能な人々の願い、祈りを具現化する偶像(フィクション)です。祈りでしか実現しない現実、生命としての限界、宗教とは人々の願いの偶像化=祈りです。多くの日本人は無宗教であると自認していますが必ずしも無宗教ではありません。家内安全、無病息災など神仏への功利的な願いは健在です。それは、偶像の衰退、崩壊です。信じるモノの喪失は宗教家の自失です。絶対安心、絶対平和は生命にとって不可能であるからこそ宗教の存在意義があります。愛、謙虚、感謝・・・平和 偶像は再興されるべきです。人はなぜ信仰しないのか?リアリティの欠如?現実離れの寓話?しかし、私達にはリアリティをもって信じられるものがあります。
   -私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-
   As long as I am, you are existing. As long as you are, I can exist.
 愛する人への愛の確信であり、愛する人の自己への愛の確信です。それは又、文明文化を発展継承してきた先人の命、祖先の命は自己の存在によって存在が証明され、同様に愛する人々、或いは子孫による自己の存在証明です。そして自己存在の確認(アイデンティティ)であり、命と文明の継承、生命科学の理です。


 宗教自体が祈りであるならば祈りは不用であり、死者は祈りの対象では無く、往時を思い出すこと。ならば、祈りは不用です。
 困った 宗教行事には祈りが当然と言う固定観念が崩壊します。

   -私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-

 愛する人への愛の確信はまだ簡単ですが、愛する人の自己への愛の確信は簡単ではありません。親に対する甘えによる確信、エゴでは無いからです。又、自分を愛するように隣人を愛する 事とも少し違います。家庭は崩壊し、自分も崩壊します。難しい問題ですが、
 互いの存在が独立した上での合体、同一化の愛です。相手の幸せを自分の幸せと感じられるか?独占や依存の関係であれば憎しみ憎悪に変化します。愛する人が他の人を愛することを許せますか?経験が何より重要ですが、人としての成長の問題。

 宗教が祈りならば、何をすればいい? 祈りに対して祈りは慰(なぐさ)めでしかありません。
誓い、感謝 加護 願掛け?
神仏霊がこの世にあるならば、この世の地獄はあり得ない。私が思うように、先人も現世での地獄を許さないと考えていた。しかし、すべては現在も発生する現実の生業。

愛する人が亡くなった時は  泣く? 放心し何もする気力が無くなる?

 湧き上がる衝動は何かをしないでは済まない 石を積み上げる? かくして、心情を込めた芸術が生まれ、宗教が発達しました。弔い 形式化された葬儀に身を委ねる 安静と時間が経過 別れの覚悟。
  
傍観者としてその風景を見れば、司祭、坊さんも参列者を含め、祈りの風景
ガッテンできました