古典派・現代正統派の果たす役割:彼らは「自由の敵」に対する永続革命を続けている
前々回、古典派、現代正統派をキリスト教の創造論者に例えたが、もちろん古典派、現代正統派の見解は創造論者と違って「社会」の役に立っている。立っているから、創造論者と違って権力の覚えめでたきものとなる。
ケインズは第3章で以下のように書いていた。
では「リカードが完膚無きまでの勝利」を得たのはなぜだろうか?
- 知的威信:無学な庶民の考えるところとは、はるかかけ離れた結論に到達していること
- 徳性:実践に移されると禁欲的となり、多くの場合、苦みさえともなったこと
- 美:壮大で首尾一貫した論理的上部構造をもつように仕立て上げられていること
- 権力の覚えめでたきもの:進歩を旨とする体制では数々の社会的不正義も無慈悲と見えるものもそれらはなべて必要悪にほかならず、これらを変革しようとする試みはつまるところ善よりはむしろいっそうの悪をなすと説明して見せたこと
- 権力の背後にいる支配的社会勢力の支持を引きつけた:資本家個人の自由な活動を正当化する方便を提供したこと
労働者が賃金を上げよう、生活をもう少し良くしよう、という動きに対して立ちはだかるのが古典派であり現代正統派なのである。経済体系にどのような問題が生じても「基本何もしなくていい」「「自然に逆らった政策はかえって有害」というわけだ。
ところが、「政府は何もしなくていい」と言っても、ケインズ以降の経済社会では、すでに政府の果たしている役割が巨大なものとなっている。日本では、一国の総付加価値であるGDPは、2020年第2四半期で、年率換算ざっと500兆円。それに対して一般政府の総支出は100兆円に上る。
つまり、100兆円以上の資金が集められ配られている。再分配されているのだ。
前々回、古典派・現代正統派を創造論者に例えた。
それは、その特殊な場合が古典派の理想郷であり、そこに至らない「自由(放任)の敵」を打倒するのが彼らの使命だからである。その意味で「世界は6000年前に神によって創造された」という反証不可能な命題を信奉する人々と変わらないのである。」と書いたが、そんな「理想郷」が復活する可能性は全くないのである。だから彼らの議論は自由の敵を討ち果たすまでの「永続革命」となる。彼らの「理論」が現実化しないのは常に敵のせいである。「自由の敵」には事欠かない。
かつて中央銀行は「最後の貸し手」と言われた。今や一般政府という公的部門が最後の借り手なのである。
しかも地方政府(自治体)、社会保障基金、中央政府からなる一般政府のうち地方政府、社会保障基金は黒字となっており、中央政府も健全財政を志向し懸命に緊縮の努力を続けている。
人々の苦しみが終わることはないが、彼ら古典派-現代正統派にとって「進歩を旨とする体制では数々の社会的不正義も無慈悲と見えるものもそれらはなべて必要悪にほかならず、これらを変革しようとする試みはつまるところ善よりはむしろいっそうの悪をなす」のだ。
扉絵はアマルティア・セン