よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

68:第五編のまとめ その2:貨幣賃金の切り下げは消費性向、資本の限界効率表、利子率にどのような影響があるか

2021年01月26日 | 一般理論を読む
労働力商品の特殊性こそ鍵となる

不況の時、操作すべきは貨幣量か? 賃金か?

貨幣量が事実上固定されているとしたら、賃金単位で測った貨幣量は貨幣賃金を十分切り下げることによってどこまでも増やすことができるのは明白である。しかも所得に対する貨幣の相対量は一般には大きく増加しうるのであり……したがって、貨幣量は変えなくても賃金を切り下げれば、賃金水準はそのままにして貨幣量を増やすのと全く同じ影響を利子率に及ぼすことができる。少なくとも理論上はそうすることが可能である。

貨幣量を増やして投資を最適水準にまで増加させようとしてもその効力に制約があることは先に述べたが、同じことが、必要な修正を施せば、賃金切り下げの場合にも妥当するのである。貨幣量をある程度増やしたくらいでは長期利子率に対する影響は不十分である。かといって貨幣量を極端に増やせば、確信を混乱に陥れ、他の利益を相殺するかもしれない。それと全く同様に、貨幣賃金を少々切り下げたくらいでは効果に乏しく、一方、極端な切り下げは、たとえそれが可能だとしても、確信を粉々に打ち砕いてしまうだろう。

 ワークシェアリングという言葉も流行ったが、これこそが伸縮的賃金政策のことであり、新自由主義と根は同じである。

伸縮的賃金政策は完全雇用状態をずっと維持することができるという信念にはなんの根拠もないことになる。それは、公開市場を通じた金融政策が独力で同じ結果を達成することができるという信念に根拠がないのと同様である。経済体系をこのような線に沿って自己調整的とすることは不可能である。

 ワークシェアリングもリフレ政策も一刀両断だ。

 何が論争の課題となっているのか。古典派―現代正統派は貨幣数量説に立つ。貨幣数量説は貨幣とは実体経済を覆うヴェールに過ぎないというものである。だから貨幣量を操作したところで何の影響もない、と考える。そのさらに裏には実体経済は必ず需給が均衡しているという信念がある。貨幣量は固定しておいて「放っておけば」自由放任の神が調整してくれると考えるのだ。まさにフリードマンは現代世界に自由放任の神を召喚したが、それは悪魔だということがお分かりいただけよう。「貨幣量固定だから賃金の方を伸縮させよ」というのである。

 ところが現実の世界では賃金はすぐには下がらない。下方硬直性がある。だから労働市場の岩盤規制を破壊して云々ということになる。

 一方、古典派―現代正統派には賃金固定=貨幣量伸縮という立場も存在する。現代においてはリフレ派と呼ばれている。

 ケインズは貨幣量操作だけでは効果がないとリフレ派をも批判する。ここがフリードマンともリフレ派とも違うところである。

 一般理論第1~3章で示されたとおり、古典派には原理的に均衡解、すなわち需給が均衡する点が存在しない。それはセイの法則によって需給は常に均衡状態にあるはずだからである。

 現実には、在庫の山と、それを買えない失業者の群れができてしまう。ケインズ以降人類はそれと闘う武器を手に入れたわけだが古典派的常識が邪魔をして不完全にしか実行できない。デフレが世界を覆い、日本では不正規雇用、世界では失業という問題が普遍的となる。

 このような(経済)思想の根本にあるのは「本来は」均衡状態にあるはずだという素朴な信仰に過ぎない。ケインズは古典派理論を定式化して見せることによって、古典理論では均衡解が得られないことを、さらに一般理論では均衡解が得られるが、そのとき完全雇用は達成されていないことを明らかにしたのである。

 我々は、自由放任下での完全雇用達成の不可能性のもとで生きている。
現代正統派は、効率、競争を好み、浪費、無駄を嫌うが、不完全雇用とは、人間の能力の開花を妨げ労働力をドブに捨てている最大の無駄だとは気づかない。

 労働力はイザというときのために取っておくことはできない。今日生まれた労働力は今日使われないと帰ってこないのである。
 
 労働力商品の特殊性こそ問題を解く鍵となる。


 

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