よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

場外乱闘篇 2:竹中経済白書(2001/12/4)を論ず

2020年11月16日 | 日本経済を読む
 論理構造のない文章は始末に負えないが・・・

 こういう文章を論ずるのは難しい。ケインズが一般理論を書くときに直面した問題である。なぜなら、論理構造がないからである。A⇒B、なら、Aでない⇒Bでない、となる。それがないのである。

 ケインズはそのために古典派理論の公準(古典派が拠って立つ前提つまりA)を自ら定式化し、その前提が成り立たないことを証明している。そのような回りくどい手順を取らざるを得ないのである。

 この経済白書はどうだろう。白書が中心的テーマとしてとり上げたのは
  • 不良債権問題と経済の関係
  • 我が国財政が抱える課題
  • 日本経済の回復力の弱さ
 だそうである。一般理論はそれぞれに回答を与えているが、それはさておき、この白書はどういっているだろうか。

 「不良債権問題と経済の関係」の項には不良債権問題について二つの考え方が併記してある。

一方に、不良債権は景気の足を引っぱっている大きな要因となっており、この問題の解決が経済低迷脱出の鍵を握るとの考え方がある。

他方、景気低迷が続いているので、不良債権問題がいつまでもなくならないのであって、不良債権は病気の原因ではなく発熱の兆候に過ぎないとする考え方もある。そのような考えによれば、不良債権が本当に景気の阻害要因であれば、クレジット・クランチで金利は高まっているはずで、現在のカネ余り状況で不良債権問題の解決を急いでも、倒産や失業の増加の悪影響の方が大きいということになる。

 「不良債権問題」を考える上で最も重要なのは取り巻く環境である。2001年時点で完全失業者は340万人を超え完全失業率は5.0%、20人に1人が失業している状態であった。もちろんこの時点で戦後最悪である。「他方・・・」の考え方の方が常識的である。低体温症の患者に解熱剤を与えるようなものだからである。
 「現在のカネ余り状況で不良債権問題の解決を急ぐ」必要は全くなかったのである。

 そして、白書は「他方・・・」の考え方にどう反論しているのだろうか?反論していないのである。

不良債権と経済低迷の間には双方向の関係があるけれども、やはり不良債権問題の抜本的解決が、日本経済の難局打破にとって重要だ。

 なぜ、「やはり」なのか?あえて探せば

こうした金融と経済の関係に関する最近の研究成果は、我が国の経済成長にとって、産業の再生に加え、不良債権問題などの我が国金融部門が抱える問題を解決することが重要であることを示唆している。

 研究成果より現実の方が大事であろう。そのような研究成果が日本の現実に合うかどうかの吟味も必要だ。それをしないのは研究成果を宗教上の教義にしてしまうのと同じである。

 さらに2001年末での「不良債権」の状況はどうなっていたのか。「不良債権」の処理は金融機関の貸出の縮小として現れる。不良債権を最大にみると、1991年~2010年の貸出最大額(1998年)と貸出最少額(2004年)の差となる。総額は223兆円である。「貸出縮小 類型 %」とあるのは、223兆円に対して各年末までにいくら「処理」されたかである。元データは国民経済計算である。 



 2001年末には最大に見た「不良債権」の77%は終わっていたのだ。
 
 さらに「不良債権」というものは、処理が進むほど増えていくという性質を持つ。なぜなら、不良債権処理と言うのは市中からの資金の引き上げのことに他ならない。市中から資金を引き上げていったら経済状況は悪化し、不良でないものまで不良化するのである。

 土地バブルが崩壊したのは、1991年である。しかし下のグラフのとおり1998年まで金融機関の貸出は増加している。1997年には消費税増税とアジア通貨危機があったが1998年も貸出は伸び続ける。



 白書は「改革なくして成長なし」と唄うが、そもそも、不良債権処理を行う必要があったのか?
 我が国金融部門が抱える問題を解決することにはどのような方法があるのか?
「どのような」不良債権を「どのように」処理すべきだったのか?
 2001年以降も行われた、不必要かつ強行的な不良債権はなぜ行われたのか?
 国民はそれを支持したのか?

 最終的には、
 どのような処方箋があったのか?
 まで議論を進めたい。

「場外乱闘篇 3:「不良債権処理」は何をもたらしたか? 金融機関の今そこにある危機」へ続く


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