よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

53:第15章:流動性の罠! テキストはたった347文字です

2021年03月12日 | 一般理論を読む
公開市場操作と流動性の罠

流動性の罠を言い出したのはヒックスで、現代日本で広めたのはクルーグマンだろう。本稿で一般理論の該当箇所に言及するが、従来の解釈は間違っていると思われる。なぜなら有効需要の概念がないから。

このように見て来ると、利子率が高度に心理的現象であることは明白である。たしかに、第5篇で見るように、均衡利子率は完全雇用利子率を下回る水準にはありえない。なぜなら、このような水準では真性インフレーション状態が生み出され、その結果、M1はどんどん増え続ける現金量を片っ端から吸収してしまうであろうから。

 このように見てくると、というのは 「2パーセントの長期利子率では、希望よりは怖れが優勢となり、しかもこの利子率では、期間収益は怖れのごく一部分を相殺するだけである」を受けている。

 ケインズは心理的を高度に慣習的と言い換えて、利子率を放っておけばいつまでも完全雇用は達成されないことを指摘する。将来への不安が亢進したとき、流動性選好は高まる。利子率の一般理論では利子率は流動性を手放すことへの報酬であった。流動性選好が高まった時、利子率は上昇する。

 いや待てよ。資本の限界効率に不安が生じ、将来の利子率が下がると期待されるから流動性選好が高まるんじゃなかったっけ?

 実際の利子率は下がったとしても、それで流動性を手放そうという人は誰もいなくなるということである。

 ケインズは、そのような時に、通貨当局が取るべき方策を提言している公開市場操作である。かなり長いが引用する。今日では常識である(だった?)。

有効需要を完全雇用を与えるに足る高水準に維持しようとするさいに立ちはだかる困難-―慣習的でかなり安定的な長期利子率と気まぐれで高度に不安定な資本の限界効率との結びつきによって生じる困難は以上で読者には明白になったことと思う。

 だから利子率を操作することが完全雇用達成にとって重要なのだ。

ケインズによる「公開市場操作」の提案

以上のことは次の命題に要約することができる。期待の状態がどのようなものであれ、大衆は取引動機や予備的動機のために必要とされる量を超えて現金を保有しようとする潜在的可能性をもっており、その可能性は実際に現金保有となって実現するが、その程度がどれくらいかということは通貨当局が現金を創造しようとするさいの条件にかかっている。流動性関数L2に要約されるのはこの潜在的可能性にほかならない。
それゆえ他の条件に変わりがなければ、通貨当局の創造する貨幣量に応じて一つの利子率、もっと正確に言うと、満期の異なるさまざまな債権の利子率複合体が決まる。もっとも同様のことは、経済体系における貨幣以外のどのような要因をとってみても、それを他から切り離すかぎり、言えることである。したがってこの特殊な分析に有用性と意味があるとすれば、それは貨幣量の変化と利子率の変化とのあいだにとりわけ直接的あるいは因果的な連関がある場合だけである。われわれは両者のあいだにことさらの連関があると考えるが、その理由は、銀行体系と通貨当局は、大まかな言い方をすれば、貨幣と債権のディーラーであって、〔実物〕資産や消費財のディーラーとは違うということである。
通貨当局がありとあらゆる満期日の債権を、条件を指定し、売り買い双方向で取引することにやぶさかでなければ、利子率複合体と貨幣量との関係は直接的となるだろう。危険の程度がさまざまに異なる債権でも進んで取引しようとする場合には、なおさらである。このときには、利子率複合体は単に銀行体系が債権を取得あるいは手放すさいの条件を表すだけのものとなり、そして〔需要される〕貨幣量は、関連事項をすべて勘案したすえに、市場利子率に示された条件であれば流動現金を債権と交換に手放すよりはむしろそれに対する支配権をもつにしかずと考えて、人々が彼らの手許におく量だとことになろう。短期手形に対する単一の銀行割引率しかなかったところへ、中央銀行があらゆる満期日の金縁〔優良〕債券を指定した価格で複合的に売買するようになったことは、おそらく、通貨管理技術の考えられる改良の中でも実務上最も重要なるものである。(*筆者注:日銀はフル活用している)

異次元の金融緩和論者がどうしても理解できないこと-利子率操作が無効になるとき

 ただ、ケインズは利子率の操作だけで完全雇用が達成できるとは考えていない。公開市場操作の限界について指摘している。ここに「流動性の罠」についての言及(347文字)があり、まさに日本の現実である。

先述した理由によって、利子率がある水準まで低下すると、たいていの人々が利子率のきわめて低い債権を保有するよりも現金のほうを選好するようになるという意味で、流動性選好が事実上無制限になる可能性がある。このような事態に陥ると、通貨当局は利子率を有効に制御する手立てを失ったも同然である。もっともこの極限的な場合は、将来ならいざ知らず――将来には現実にも重要になるかもしれない――これまでのところは、そのような例を聞いたことがない。実際、たいていの通貨当局は長期債権の売買になかなか踏み切れないから、〔この極限の場合を実地に〕検証する機会はあまりなかった。しかる仮にこのような事態が起こったとしても、このことは、公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れができることを意味しよう。

 まさにケインズの予言通りだが、「このことは、公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れができることを意味しよう。」というセンテンスは今も理解されていない。

さらに、

銀行は、たとえ貸手〔預金者〕に対する純粋利子率がゼロだったとしても顧客に対しては1.5ないし2パーセント〔の危険費用〕を負担させなければならないかもしれない。

ゼロ金利政策の敗北

 これはまさに現代日本の実効市中金利である。ケインズはまだ生きていて現代日本を見ているかのようだ。ケインズは貸し倒れ引当のことを言っているのだが、ケインズの時代は膨大な支店数や行員という間接経費はなかったろうから、貸し倒れ引当に加えて間接経費を加えるべきであろう。

 現代日本の金融機関にもう一度不良債権処理を行える体力が残っているとは思えないが、そうなったら日銀特融で切り抜ける方法がある。しかしそうなる前に「公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れ」し需要を創造するほうがよほど分別のあるやり方であろう。

最後に簡明な貨幣数量説批判が出てくる。

現実世界〔を分析する〕という目的からすると、産出量の変化の関数である物価の変化と賃金単位の変化の関数である物価の変化を区別していないのは貨幣数量説の大きな欠陥である。このような区別をしないですむ理由はおそらく保蔵性向なるものは存在せず経済はいつも完全雇用状態にあるという想定に求められる。なぜならこの場合には、Oは一定、M2はゼロとなり、それゆえ、Vもまた一定と仮定できるなら、賃金単位と物価水準の双方は貨幣量と正比例の関係に立つからである。(1)この点は以下、第21章においてさらに詳しく論じられる。

 この第21章を含む第5編 貨幣賃金と物価はケインズの賃金論になっており労働組合関係者は必読である。

 

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