「くさぐさの」 って何?原文は、SUNDRY OBSERVATIONS ON THE NATURE OF CAPITAL sundry expenses は雑費だから、訳者が「資本の性質に関する諸考察?資本雑考ではねえ」と考えた結果だろう。全体としては脱線だが、脱線だからこその記述に満ちている。
勤倹貯蓄は褒められる美徳ではない、という「良識人」が眉をひそめるようなことが書いてある。公理系の叙述が終わったのでこの辺からのケインズの筆致は軽い。読み物としてもなかなか面白いのでぜひ原文に当たっていただきたい。原文の引用も多くなる。岩波さんごめんなさい。
この章で一番重要なのは、自由放任の下での完全雇用達成の不可能性を理論的に明らかにしていることである。
ケインズは次のような社会を想定する。
- 資本の限界効率はゼロ、追加投資を行うと負になるほどに資本が十二分に装備された社会である。(資本財が飽和しているということは消費財も飽和しているということ)
- 貨幣の「持ち」がよく、その貯蔵費用と保管費用がほとんどゼロであるような通貨システムをもっているおかげで、利子〔率〕は現実には負になることはありえない。*
- そして完全雇用状態にある。
- 貯蓄意欲にも欠けていない。
- *については多少の説明が必要かもしれない。100単位の貨幣の年間利子率が2貨幣単位だが貯蔵・保管に2貨幣単位かかるとすると、一年後は100+2―2=100となる。貯蔵保管に3かかると一年後は100+2―3=99となってマイナス利子となる。ということを言っている。現実には貯蔵保管費用はゼロに近く、年間利子率がゼロなら、誰もが貨幣をもったままになるだろう。
状態がこうで、完全雇用の地点から出発するとしよう。この場合、現存する資本ストックのすべてを活用するほどの規模で雇用を提供し続けるなら、企業者は必ずや損失を被るだろう(*1)。だから資本ストックと雇用水準は、社会が貧困化して総貯蓄ゼロ、すなわちある人々あるいは集団の正の貯蓄が他の人々あるいは集団の負の貯蓄によって相殺されるまで、収縮せざるをえない(*2)。こうしてわれわれの想定している社会では、それが自由放任の状態にあるとしたら、均衡状態は貯蓄がゼロとなるくらい雇用水準が低く、生活水準も惨めな状態であろう。しかも大なる可能性で、この均衡点のまわりを振動する循環運動が起こるだろう。なぜなら、将来に関する不確実性の余地がなお存在している場合には、資本の限界効率は散発的にゼロ以上に上昇して「好況」をもたらし、その後に訪れる「不況」においては、資本ストックはしばらくのあいだ資本の限界効率を長期的にはゼ口とする水準以下に低下するかもしれないからである。予見に過つことがなければ、資本の限界効率がゼロとなる均衡資本ストックはむろん利用可能労働量の完全雇用に対応するストックよりは小さい〔資本ストックは完全雇用に到達する以前に飽和する〕だろう。というのは、それはゼロ貯蓄をもたらす〔ほど低い所得、それゆえプラスの〕失業率に対応した資本装備だからである。
これに代わる均衡点があるとすれば、それはただ次のような状態だけであろう。すなわちそこでは、限界効率がゼロとなるほど大量の資本ストックが存在しており、しかもこのことは将来に備えようとする大衆の欲求が完全に飽和してしまうほど富が大量に存在していることを意味している。そのうえ完全雇用さえ成立し、利子という形態の特別報酬は得られない状態にある。だが、資本ストックがその限界効率がゼロとなる水準に達したまさにそのとき、完全雇用状態における貯蓄性向が飽和してしまうというのは、出来すぎた一致である(*3)。したがって、もしこのより好ましい可能性に出番があるとしたら、それは利子率がゼ口となる点ではなく、それ以前の、利子率がしだいに低下していく途中のどこかある点で、ということにおそらくなるであろう。
*1:有効需要の均衡点を超えて生産を続けると赤字の垂れ流しになる。
*2:条件④から貯蓄は続くが、条件①から新規の投資案件はなく貯蓄の対応物はない。この前提では貯蓄の分だけ所得が減っていく。当然消費も減り過剰資本が顕在化する。大恐慌の出現だ。条件①のように貯蓄に見合う投資がなければ、総貯蓄ゼロになる地点まで奈落を転がり落ちていく。この状態から抜け出すためには、どのような投資であれ貯蓄の対応物が必要となる。
*3:限界効率がゼロのときには所得はすべて消費に回されるはずはない。すべて消費というのはこの条件下では、投資案件がゼロとなっているはずだから。