釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

47. 『鳥 けもの ねむれる時にわが歩む・・・』

2011-09-14 11:54:20 | 釋超空の短歌
『 鳥 けもの ねむれる時にわが歩む
    ひそかあゆみの 山に消え行く 』
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深い山の中の鬱蒼とした樹々。その翳(かげ)った罔(くら)い細道を、一人、影のように秘かに歩む釋超空の姿を想像すると、このときの釋超空は人間というより、『けもの』と言うほうが似つかわしい気が私はする。

例えば、既に挙げた下記のうたの釋超空の感覚も、人間というより『けもの』の感覚に近い感じがする。

『山中(なか)は 月のおも昏(くら)くなりにけり。
    四方(よも)のいきもの 絶えにけらしも 』

『四方(よも)のいきもの』の気配を感じ取ろうとする釋超空自身が、ひとつの『けもの』になっているのだ。

釋超空という人の、『けもの』のような感受性。

それについて適格に指摘している文章がある。

その文章は既に紹介した山本健吉の解説の以下の箇所だ。
(私ごときが下記の解説に付け足すものは何もない)

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北原白秋に「折口さんの歌について」と傍書した『黒衣の旅びと』というエッセイがある。その一節に言う。

『万葉でいへば、同じ旅の歌でも、人麿より黒人くろひと)に、この人は近く、自然の観照の於いても、赤人よりも黒人に深みを見られるごとくに、この人は複雑である。

しかも黒人の境地を出発として、涯(はて)しもない一つ道に踏み出したかの観がある。 この特異にして幽鬼(いうき)のやうな経験者は、幽かに息づいては山沢をわたり、ひそかに息をこらしては林草の間をたづねてゆく。

音こそきかね。道のはるかに立つ埃(ほこり)にも眼を病むのである。』

これは超空の人および歌の特質をよく見据えた言葉であった。超空の旅の歌の「ひそけさ」や「かそけさ」が持つ不思議な寂寥感ーーと白秋は言い、そこに尋常人の鍛錬(たんれん)によっては得られぬ、不気味なほどの底から光って響いて来る、未だかって見ないひとりの人の歌の本質を見た。

『若しかういふ旅人と山奥の径や深い林の中で遭遇ったら、それは明るい昼の日射しの下ではあっても、冷々とした黒い毛ごろもの気色や初めて触れて来るたましひの圧迫を感じずには、すれちがへない或るものがあらう』(同) とまで言っている。

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