釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

50. 『 雇はれ来て、やがて死にゆく小むすめの命を見し・・・』

2011-09-20 14:17:43 | 釋超空の短歌
『 雇はれ来て、やがて死にゆく小むすめの命を見し。これの二階に 』
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このうたは大正七年に作られている。

当時の地方の生活の実情はどのようなものであっただろうか。
今では想像も出来ない悲惨な状況が少なくなかっただろう。

生計のための『娘売り』ということもあったに違いない。

以下の文章は、山本健吉の解説の一部であるが、釋超空の旅が如何なる旅であったかを教えてくれると同時に、当時の日本の地方の実情をも教えてくれる。
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『供養塔」の歌は、超空が大正九年七月に、濃・信・遠・三の国境地方の山間の民間伝承探訪の旅の歌であった。

今でこそ、雪祭・花祭地帯として、民俗学徒は誰しも出掛けて行くが、当時は外部から隔絶された山間の別天地で、気楽な気持ちで入って行けるところではなかった。

この地方の古俗を初めて紹介した早川孝太郎が、超空の旅が随分と無茶な冒険に近いものだったことに驚いている。

一間しかない坂部(さかんべ)の宿では、一つの蚊帳の中に旅の洋傘直しと寝、宿の老爺が隻眼(がんち)だったことに脅かされたりした。

馬方の死を見たり、矢矧(やはぎ)川の橋づめに仆れている馬を見たり、美濃の搘皮(ちょひ)商人の遭難を聞いたり、険しい山道では陰惨な話の数々も聞いている。 
山道に行き暮れて野宿するようなことは、以前から度々あったらしい。』
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掲題のうたの『小むすめ』も、おそらく、このような『外部から隔絶された山間』の出身者であり、なにがしかの金の変わりに『売られて』きたのだろう。

そして、『雇われ先』の二階の、おそらく粗末な病床で彼女はその短い命を閉じる。

『やがて死にゆく小むすめの命』を見つめる釋超空の視線は、『供養等』のなかの『いきものたち』へ向けた視線と全く同じではないだろうか。

『供養等』をうたっとき、釋超空は、この『小むすめ』をも思っていたに違いない。

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『供養等』

『 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 』
                                   
『 道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに 』    
                                   
『 邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 』
                                   
『 ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく 』  
                                     
『 ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり 』

49. 『 両国の橋ゆくむれに、われに似て・・・』

2011-09-19 14:04:46 | 釋超空の短歌
『 両国の橋ゆくむれに、われに似て、
     後姿(うしろ)さびしき人のまじれり 』
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両国は別に両国でなくても構わない。
むしろ、この世の別名だと思おう。

橋は此岸と彼岸との橋だと思おう。

さて私は今まで私自身の後姿を見たことがあっただろうか。

貴方は今まで貴方自身の後姿を見たことがあっただろうか。

想像してみよう。

あの橋を渡るとき、「私」は「私」自身の後姿を見ていることを。

その後姿は、どのように見えるのだろうか。

想像してみよう、その後姿を。

きっと、さびしき人が橋をとぼとぼと歩いていると思うだろう。

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『 かくばかり さびしきことを思ひ居(を)し 我の一世は、過ぎ行かむとす 』 

48. 『 かそかなる幻 ーー昼をすぎにけり・・・』

2011-09-19 08:39:38 | 釋超空の短歌
『 かそかなる幻 ーー昼をすぎにけり。
     髪にふれつゝ 低きもの音 』
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「私」(女性)は幻影を見た。

幻影? たしかに、それは幻影としか言いようがない。

秋の昼の陽の光は解析幾何学のように透明であったが、

しかし一瞬の翳りを「私」は、その光の中に見た。

その翳りは幻影となって、ふと「私」の髪にふれた。

「私」は驚いて振り返って見た。

だが、見えたものは透明な秋の陽の光ばかりだった。

ただ、『低きもの音』が「私」の耳の奥で、今も思い出したように響いている。

47. 『鳥 けもの ねむれる時にわが歩む・・・』

2011-09-14 11:54:20 | 釋超空の短歌
『 鳥 けもの ねむれる時にわが歩む
    ひそかあゆみの 山に消え行く 』
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深い山の中の鬱蒼とした樹々。その翳(かげ)った罔(くら)い細道を、一人、影のように秘かに歩む釋超空の姿を想像すると、このときの釋超空は人間というより、『けもの』と言うほうが似つかわしい気が私はする。

例えば、既に挙げた下記のうたの釋超空の感覚も、人間というより『けもの』の感覚に近い感じがする。

『山中(なか)は 月のおも昏(くら)くなりにけり。
    四方(よも)のいきもの 絶えにけらしも 』

『四方(よも)のいきもの』の気配を感じ取ろうとする釋超空自身が、ひとつの『けもの』になっているのだ。

釋超空という人の、『けもの』のような感受性。

それについて適格に指摘している文章がある。

その文章は既に紹介した山本健吉の解説の以下の箇所だ。
(私ごときが下記の解説に付け足すものは何もない)

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北原白秋に「折口さんの歌について」と傍書した『黒衣の旅びと』というエッセイがある。その一節に言う。

『万葉でいへば、同じ旅の歌でも、人麿より黒人くろひと)に、この人は近く、自然の観照の於いても、赤人よりも黒人に深みを見られるごとくに、この人は複雑である。

しかも黒人の境地を出発として、涯(はて)しもない一つ道に踏み出したかの観がある。 この特異にして幽鬼(いうき)のやうな経験者は、幽かに息づいては山沢をわたり、ひそかに息をこらしては林草の間をたづねてゆく。

音こそきかね。道のはるかに立つ埃(ほこり)にも眼を病むのである。』

これは超空の人および歌の特質をよく見据えた言葉であった。超空の旅の歌の「ひそけさ」や「かそけさ」が持つ不思議な寂寥感ーーと白秋は言い、そこに尋常人の鍛錬(たんれん)によっては得られぬ、不気味なほどの底から光って響いて来る、未だかって見ないひとりの人の歌の本質を見た。

『若しかういふ旅人と山奥の径や深い林の中で遭遇ったら、それは明るい昼の日射しの下ではあっても、冷々とした黒い毛ごろもの気色や初めて触れて来るたましひの圧迫を感じずには、すれちがへない或るものがあらう』(同) とまで言っている。

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46. 『うらうらと さびしき浜を来たりけり・・・』

2011-09-13 11:29:17 | 釋超空の短歌
『 うらうらと さびしき浜を来たりけり。
     日はやゝ昏(く)れて、ひゞく 浪音 』
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釋超空と石原裕次郎。

ほとんど全ての人が、この二人は全く無縁と思うだろう。

確かに無縁には違いない。

しかし一つだけ共通点がある。

それは石原裕次郎の映画『錆びたナイフ』の主題歌と、釋超空の掲題のうただ。

どこが共通? と思う人は下記のYou Tube で『錆びたナイフ』を聴いて頂くしかない。

http://www.youtube.com/watch?v=h_1JAQ_OoAg

それでも、どこが共通? と思う人がいたら、私とその人の感性の相違だとしか言いようがない。(勿論、感性の良いの悪いのという話では全くない)

思えば、この唄が流行ったのは私が中学生の頃だった。友人がこの唄を口笛ふいていたのだった。