へそ曲がり人間の退屈な日々

独断と偏見で好き勝手に気が付いた事や言いたい事を綴る気ままな日記。

体罰と教育

2006-05-06 | 日記
長いように思った連休ももうすぐ終わる。
今年は天気の方はなんとか好天に恵まれていた。
しかし何処へ行くにも渋滞や混雑が当然だし
ガソリン代も高騰しているので遠出はやめて
家でゆっくり休養している方が
一番気分が落ち着くし気楽である。
気晴らしは近くの佐鳴湖岸をぐるりと散策。
若葉の緑がなんとも清清しい気分にさせてくれる。
こどもの日も終わって今日はもう立夏である。
これから梅雨に入るまでの1ヶ月位が
気候的には一番快適なシーズンだと思うのだが
季節は止まってはくれない。
夏生まれの自分は夏は嫌いではないのだが
雨や嵐が苦手である。
テレビの視聴もCSやBSが主体なので
雨が激しいと画面が消えて困るのである。
地上波のテレビは見たい番組がないからだが。
民放は殆どの時間帯がワイドショー関係で
週刊誌ネタのオンパレードなのだから。
スポーツ中継かニュース以外は見る物が無い。
だから余程暇か気が向いた時しか見ていないのだが
先日たまたまある地上波番組を見ていたら
先日刑期を終えて出所してきた
戸塚ヨットスクールの戸塚校長を交えて
討論番組をやっていた。
その中で体罰は教育であるという戸塚氏の見解と
体罰は暴力でしかないという教育者の見解が
それぞれの立場で議論されていたのであるが
話題が体罰のみに集中して
そこからの進展が無いまま終わったので
何かいらいら感のみが残ってしまった。
そもそも体罰=暴力というから話が判らなくなる。
叱ると怒るを同列にしているからいけない。
悪い事をした者に注意する為に叱るのであり
嫌な事をされて興奮するのが怒るであろう。
叱るのは相手への忠告や指導であり
怒るのは自分から相手への感情的発散か威嚇といえる。
怒って人を殴れば暴力である。
叱る事には相手への反省を促す意味があり
それを意識させるための手段に
体罰も止むを得ない場合があるのでは無いか?
言葉だけで注意されて反省出来れば問題は無い。
それが出来ないから体罰が必要になる。
肉体的な痛みや苦しみを味わう事で
他人の痛みや悩みの理解が出来る事もあると思われる。
ただ限度は超えては成らない物があるだろう。
死んだり一生癒えない傷を負わせたりすれば
いけない事は誰にでも判っている。
もう一度教育の話に戻るが
人は他人の話を聞いただけで知識は得られても
本当に理解が出来るとは思えないのである。
学校の講義だけで全てが教えられたら
社会生活で何の問題も起こらないだろう。
自分は知識は頭ではなく身体で覚える物だと思う。
いくら書物を読んでも体験していない物には
その事に対して実感が伴わないのである。
体育の実技、物理、化学の実験、楽器の演奏等
いくら詳しく説明だけ聞かされても
自分で体験のない物は理解出来ないのである。
実体験でなく擬似体験でも良い。
体験をして初めて理解出来る事が多いはずである。
体験の量が人間を成長させるのでは無いだろうか。
だから体罰のような痛みを知ることも
ある程度は必要な物なのではないだろうか。
もちろん殺人の体験だけは
絶対してはいけない事は言うまでもないが。






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