へそ曲がり人間の退屈な日々

独断と偏見で好き勝手に気が付いた事や言いたい事を綴る気ままな日記。

ジャワ島地震

2006-05-28 | 日記
新聞によれば死者は3000人を超えたという。
マグニチュードもM6.2からM6.3に修正された。
紙面に載っている被災写真に改めて天災の凄さを思う。
レンガ造りの建物が一瞬に瓦礫の山に変化する。
世界遺産の寺院群が全壊または半壊したという事で
瓦礫の撤去だけでも一年を要する見通しで
修復のめどはたっていないらしい。
日本では耐震偽装の問題で騒いでいるが
この惨状を建築関係者たちは
どんな思いで見ているだろうか。
2004年の暮れに起きたスマトラ沖地震を思い出す。
あの時は地震の後の津波の被害が大きかったのだが。
日本政府も緊急援助チームを
現地へ派遣する事を決めたそうであるが
医療関係者中心の数名程度らしい。
援助チームを派遣する事に異議がある訳ではないが、
こういう時こそ自衛隊のような機関が活動するのが
本来の救助になると思うのだが。
医療が役に立たないというつもりは無いが
救助の第一の使命は危険な場所からの脱出を
図ることの手助けではないだろうか。
被災地に立派な施設や移動手段が
確保されているとは到底思えない。
交通手段や通信手段を絶たれた場所での
救援はやはり組織力と行動力のある
レスキュー活動のプロが必要だと思う。
そういう事の一番頼りになる組織が
日本では自衛隊だと自分は思うのだが・・・





カメラの世代交代

2006-05-26 | その他
今日の朝刊記事の一面の記事内容である。
キャノンの社長が記者会見で
フィルムカメラの新規開発はしない方針を
明らかにしたとのこと。
市場はすでにデジタル主体に動いており
一部のマニア層を除くとニーズは少なく
新規開発のメリットは見出せないとの判断のようだ。
ニコンも今年からフィルムカメラからの撤退を
発表しているし、コノカミノルタも同様の動きなので
あと残っているのは富士フィルムとオリンパスだけか。
かつてモノクロからフルカラーへと変わり
一眼レフからバカチョンカメラ?まで
日本人の象徴とまで考えられた時代もあったが、
レコードやテープレコーダーが
CDやDVDに変わったのと同様に
全てはアナログからデジタルへ移行しようとしている。
時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、
何か寂しい気持ちになる。
自分も写真はあまり撮られるのは好きじゃなかったが、
それでも旅行や記念行事の時などには
無理やり仲間に誘われて撮ったものではあるが
いまや携帯電話もカメラ付属が当たり前になった。
それも2メガとか3メガピクセルの高画質である。
その上現像も不要でプリンターに繋げば
即何枚でも印刷可能で加工も自在な訳だから、
わざわざカメラ屋さんまで持ち込む必要も無い。
便利といえば便利だが
逆に後から手を加えるとどんな加工も出来てしまうので
虚構の世界と見分けも付かない危険もある。
芸術としては問題ないかも知れないが
真実を写しているかと言うと甚だ疑問が残るのだが。
古い人間にはどうしてもアナログな物に生物の温もりを感じ
デジタルな物にはどこか金属的な冷たさを感じる。
アナログには自然的な柔らかさを感じるし
デジタルは正確だが画一的な硬さを感じる。
仕事でも遊びでも一息つけるゆとりは必要であろう。
写真も正確さや綺麗さも必要かもしれないが
真実の中の暖かさも写し取れるような
そんな優しさを感じさせるような
人々に喜びを与えてくれる存在であって欲しい。
余談になるが自分は小さい頃
カメラという言葉が何故か嫌いであった。
写真を撮る機械だから写真機でいいではないか。
そう思っていた。
しかし大人になってからは
写真は全てが真実を伝えている訳ではないと
そう考えるようになった。
静物なら確かに自然のままだろう。
しかし動いている物は
写真ではその一瞬の断片でしかない。
映画のフィルムを一画面だけ切り取っても
細かい情報は見えないのと同じである。
だからプロのカメラマンは
一瞬の中に全てを写し込む事に命を賭ける。
静止した中に次の行動を暗示させる。
それがプロのカメラマンの使命であろう。
だから写真屋よりカメラマンという方が
よりプロフェッショナルな職業と
考えるように変わっていた。
あくまで自分の勝手な思い込みだけであるが。




台風一号

2006-05-17 | 日記
日本の南側にある梅雨前線が台風一号の影響で
活発化して本土の方もまとまった雨になりそうとの事。
明日と明後日は止むを得ないとしても
週末位は回復して欲しいものだ。
さて今日の新聞を見ると景気の拡大期が
52ヶ月となって戦後2位の長さになったとの事。
薄給の自分にとっては全然実感は湧かない。
しかし今年はトリノ5輪の荒川静香から始まって
WBCの日本優勝があり、今度はドイツW杯の
サッカーで盛り上がろうとしている。
スポーツ関係で景気を引き上げているのかなと思う。
こちらの方は日本が台風の目になってくれた方が
好都合ではあるのだが果たして?
来月上旬からの試合展開に乞うご期待という所か。



五月病

2006-05-12 | 日記
ゴールデンウィークが終る頃から
天気の方も急降下した様な感じで
毎日灰色の空ばかりしか
拝めなくなってしまっている。
気分も自然と暗く沈みがちな今日この頃である。
かつて五月病という話を聞いた事がある。
新入社員が仕事について一ヶ月位すると
ストレスを感じて来る時期らしいのだが、
何年も経っている古参社員でも人事異動の度に
コロコロ変わる職場環境に置かれれば
思わず溜息の一つも付きたいと思う事もある。
団塊世代の端くれの自分でも
会社を辞めてからの第二の人生について
考えたく無くとも考えざるを得ない。
仕事と趣味と両方をこなせる様な
器用な生き方が出来れば問題は無い訳であるが
世の中そんなに甘くないようで
死ぬまで遊んでは暮らせないかも知れない。
まあしかし悲観するのは止そう。
「人間万事塞翁が馬」と言う事もある。
無理に背伸びをせずのんびりと生きる事を
考えるとするか。
そんなに頑張る必要も無い。
昔は人生50年となっていたらしいが
今は人生80年とすると
あと3分の1はある訳だし
それ以上あれば儲けものだろう。

体罰と教育

2006-05-06 | 日記
長いように思った連休ももうすぐ終わる。
今年は天気の方はなんとか好天に恵まれていた。
しかし何処へ行くにも渋滞や混雑が当然だし
ガソリン代も高騰しているので遠出はやめて
家でゆっくり休養している方が
一番気分が落ち着くし気楽である。
気晴らしは近くの佐鳴湖岸をぐるりと散策。
若葉の緑がなんとも清清しい気分にさせてくれる。
こどもの日も終わって今日はもう立夏である。
これから梅雨に入るまでの1ヶ月位が
気候的には一番快適なシーズンだと思うのだが
季節は止まってはくれない。
夏生まれの自分は夏は嫌いではないのだが
雨や嵐が苦手である。
テレビの視聴もCSやBSが主体なので
雨が激しいと画面が消えて困るのである。
地上波のテレビは見たい番組がないからだが。
民放は殆どの時間帯がワイドショー関係で
週刊誌ネタのオンパレードなのだから。
スポーツ中継かニュース以外は見る物が無い。
だから余程暇か気が向いた時しか見ていないのだが
先日たまたまある地上波番組を見ていたら
先日刑期を終えて出所してきた
戸塚ヨットスクールの戸塚校長を交えて
討論番組をやっていた。
その中で体罰は教育であるという戸塚氏の見解と
体罰は暴力でしかないという教育者の見解が
それぞれの立場で議論されていたのであるが
話題が体罰のみに集中して
そこからの進展が無いまま終わったので
何かいらいら感のみが残ってしまった。
そもそも体罰=暴力というから話が判らなくなる。
叱ると怒るを同列にしているからいけない。
悪い事をした者に注意する為に叱るのであり
嫌な事をされて興奮するのが怒るであろう。
叱るのは相手への忠告や指導であり
怒るのは自分から相手への感情的発散か威嚇といえる。
怒って人を殴れば暴力である。
叱る事には相手への反省を促す意味があり
それを意識させるための手段に
体罰も止むを得ない場合があるのでは無いか?
言葉だけで注意されて反省出来れば問題は無い。
それが出来ないから体罰が必要になる。
肉体的な痛みや苦しみを味わう事で
他人の痛みや悩みの理解が出来る事もあると思われる。
ただ限度は超えては成らない物があるだろう。
死んだり一生癒えない傷を負わせたりすれば
いけない事は誰にでも判っている。
もう一度教育の話に戻るが
人は他人の話を聞いただけで知識は得られても
本当に理解が出来るとは思えないのである。
学校の講義だけで全てが教えられたら
社会生活で何の問題も起こらないだろう。
自分は知識は頭ではなく身体で覚える物だと思う。
いくら書物を読んでも体験していない物には
その事に対して実感が伴わないのである。
体育の実技、物理、化学の実験、楽器の演奏等
いくら詳しく説明だけ聞かされても
自分で体験のない物は理解出来ないのである。
実体験でなく擬似体験でも良い。
体験をして初めて理解出来る事が多いはずである。
体験の量が人間を成長させるのでは無いだろうか。
だから体罰のような痛みを知ることも
ある程度は必要な物なのではないだろうか。
もちろん殺人の体験だけは
絶対してはいけない事は言うまでもないが。