岩波ジュニア新書の日本神話入門「古事記」を読むを読んで何となくヤマトタケルとはこんな人なのだとわかってきたので、口語訳の古事記のヤマトタケルの部分を読んでみました。
古事記は稗田阿礼という女性が覚えていた話を編集して作られたものだと学校で習いました。
自分が伝え聞いた話をしゃべるという感じで親近感をもちました。
古事記のヤマトタケルは父から兄が朝と夕の御食の席に出てこず、自分のために贈られた見目麗しき娘2人も自分のものにしてしまったので教え諭して参れと命じられます。
芝居ではここで兄から父への謀反の気持ちを聞かされ争っているうちに誤って殺してしまいますが、あえて自分を悪者にしてそのため追い出されるようにクマソを制圧に行けと父に命じられます。
古事記では厠に入っている所を待ちつかまえて手足をひきちぎり薦につつんで捨てたと平然と父に報告します。
古事記のタケルは荒々しいところのある人物に描かれていました。
恐れおののいた父がクマソを制圧に行って来いというのを大君は肝が小さいとヤマトタケルに同情的なので芝居のように兄の謀反を父に知らせまいとしたのが本当だったのかもしれませんね。
クマソ兄弟も古事記では殺して切り刻んだと描かれていました。
注釈にこれには意味があって死者の再生というのを恐れて生き返らないようにと切り刻んだという意味もあったのではないかと書かれていました。
この後芝居には出てきませんが出雲のくにのイズモタケルという人物も殺してしまいます。
だまし討ちというあまりほめられたものではありませんが、ヤマトタケルという人は頭が切れるのでこういう方法を思いついてしまう。
ずるがしこい方と言われても仕方がない、この時ばかりは肩入れできぬと描かれています。
それでも気持ちがヤマトタケル寄りでずっと語られるのはヤマトタケルはそんな残酷な人間ではないと言っているように感じます。
どちらかというとこれだけ戦っている息子を遠ざける父のことをよく思っていない感じすらします。
戦いに明け暮れ伊吹山でその土地の山の神が降らした雹にやられ、白いイノシシの姿をした山の神にやられて弱った体でヤマトに帰りたいとヤマト目指して帰る途中の能褒野でヤマトの国を思い出して歌を歌います。
倭は真秀なる国どころ (やまとは国のまほろば)
たたみ連なる青々した垣 (たたなづくあをかき)
その山々に囲まれた倭こそ美しい (山こもれるやまとしうるはし)
そして
命継ぎ倭へもどる人たちよ (いのちのまたけむひとは)
畳の薦を重ねた平群の山 (たたみこもへぐりの山の)
そのクマカシの葉を髪飾りせよ(くまがしが葉をうづにさせ)
倭へ向かう者たちよ (そのこ)
この二つの歌は生まれ育った国を懐かしんで歌う国思いの歌と呼ばれていると書かれていました。
なつかしきわが家の方より(はしけやしわぎへのかたよ)
雲がわき立ち上がるよ (くもゐ立ちくも)
これは片歌といわれ一つしか歌われておらず後を継いで歌ってくれるものがいないと憐れんでいます。
最後に歌った
おとめのその床のそばに (をとめのとこのべに)
私が置いた剣の太刀よ(我が沖氏つるぎのたち)
その太刀を我に(そのたちはや)
で息を引き取ったと書かれています。
このクマカシの葉を髪飾りにせよというのはクマカシの葉を髪にさしておくと長生きするといわれていたそうです。
こんな歌を歌う人が荒々しい残忍な人にはとても思えず、なにか事情があったのではと思ってしまいます。
私たちはこういう悲劇的な立場の人に肩入れしてしまうところがあります。
たとえば源義経だったり(判官びいきといいますしね)
天下を取った人より敗れた人の方が印象に残るというか。
ヤマトタケルがその最初に人だったのかなあと思います。
だからこそ歌舞伎になる。
古事記は稗田阿礼という女性が覚えていた話を編集して作られたものだと学校で習いました。
自分が伝え聞いた話をしゃべるという感じで親近感をもちました。
古事記のヤマトタケルは父から兄が朝と夕の御食の席に出てこず、自分のために贈られた見目麗しき娘2人も自分のものにしてしまったので教え諭して参れと命じられます。
芝居ではここで兄から父への謀反の気持ちを聞かされ争っているうちに誤って殺してしまいますが、あえて自分を悪者にしてそのため追い出されるようにクマソを制圧に行けと父に命じられます。
古事記では厠に入っている所を待ちつかまえて手足をひきちぎり薦につつんで捨てたと平然と父に報告します。
古事記のタケルは荒々しいところのある人物に描かれていました。
恐れおののいた父がクマソを制圧に行って来いというのを大君は肝が小さいとヤマトタケルに同情的なので芝居のように兄の謀反を父に知らせまいとしたのが本当だったのかもしれませんね。
クマソ兄弟も古事記では殺して切り刻んだと描かれていました。
注釈にこれには意味があって死者の再生というのを恐れて生き返らないようにと切り刻んだという意味もあったのではないかと書かれていました。
この後芝居には出てきませんが出雲のくにのイズモタケルという人物も殺してしまいます。
だまし討ちというあまりほめられたものではありませんが、ヤマトタケルという人は頭が切れるのでこういう方法を思いついてしまう。
ずるがしこい方と言われても仕方がない、この時ばかりは肩入れできぬと描かれています。
それでも気持ちがヤマトタケル寄りでずっと語られるのはヤマトタケルはそんな残酷な人間ではないと言っているように感じます。
どちらかというとこれだけ戦っている息子を遠ざける父のことをよく思っていない感じすらします。
戦いに明け暮れ伊吹山でその土地の山の神が降らした雹にやられ、白いイノシシの姿をした山の神にやられて弱った体でヤマトに帰りたいとヤマト目指して帰る途中の能褒野でヤマトの国を思い出して歌を歌います。
倭は真秀なる国どころ (やまとは国のまほろば)
たたみ連なる青々した垣 (たたなづくあをかき)
その山々に囲まれた倭こそ美しい (山こもれるやまとしうるはし)
そして
命継ぎ倭へもどる人たちよ (いのちのまたけむひとは)
畳の薦を重ねた平群の山 (たたみこもへぐりの山の)
そのクマカシの葉を髪飾りせよ(くまがしが葉をうづにさせ)
倭へ向かう者たちよ (そのこ)
この二つの歌は生まれ育った国を懐かしんで歌う国思いの歌と呼ばれていると書かれていました。
なつかしきわが家の方より(はしけやしわぎへのかたよ)
雲がわき立ち上がるよ (くもゐ立ちくも)
これは片歌といわれ一つしか歌われておらず後を継いで歌ってくれるものがいないと憐れんでいます。
最後に歌った
おとめのその床のそばに (をとめのとこのべに)
私が置いた剣の太刀よ(我が沖氏つるぎのたち)
その太刀を我に(そのたちはや)
で息を引き取ったと書かれています。
このクマカシの葉を髪飾りにせよというのはクマカシの葉を髪にさしておくと長生きするといわれていたそうです。
こんな歌を歌う人が荒々しい残忍な人にはとても思えず、なにか事情があったのではと思ってしまいます。
私たちはこういう悲劇的な立場の人に肩入れしてしまうところがあります。
たとえば源義経だったり(判官びいきといいますしね)
天下を取った人より敗れた人の方が印象に残るというか。
ヤマトタケルがその最初に人だったのかなあと思います。
だからこそ歌舞伎になる。