いわゆる右でも左でもオーガニックでも、今も昔も陥ってしまう現象に、
イデオロギーが記号、題目のようになって議論を寄せつけず硬直化するというものがあります。
イデオロギーありきで、その題目に反する(と早とちりしている)言葉は言ってはいけなくて
題目に Yes!!GoGO!!以外言ってはいけないみたいになってる、カルト的な硬直、閉塞です。
そんな中では言葉狩りがなされたりします。
例えば誰かが「B氏はいい大学を出ていても…」と誤った事実認識で発言したことをうけて
「B氏は大学は出ていない。高卒あるいは中卒である。」と別の人が返事をしたことに対し、いちいち
「学歴差別になるから」と言ったりです。事実を言って誤った認識を修正することは差別ではないのに。
そういう揚げ足取りは私も苦手で、そういう場面を見ると、窒息しそうになります。
また、こういった揚げ足取りは、自分の言ったことに歯向かわれたと低次元な解釈をした人による
反射的報復としても行われます。器が小さい。卓球してるのかと言いたくなります… そんなせこい現象が
繰り広げられることに嫌気がさして、思想の大枠を共有して集まったはずの人達が去って行きます。
事実を誤りなく共有しようとすることを、歯向かったとか、泥を塗ったとか メンツに落とし込んだ解釈がなされると
物事が順調に運べなくなります。だから、リーダーは、メンツなどに囚われない人こそが、その器だと思います。
そういうリーダーであれば、かれの思想に一見同調しない(ように見える)意見が出ても、議論に乗せて
考えを深めたり、分別・整理していき、みんなにとって有意義な思索作業となりますし、 権威のパラドックス
事実を誤りなく共有することがスムーズにできます。
そういうことができないなら、右でも左でもオーガニックでも芸術コミューンでも、カルト集団みたいです。
そんな場所で、題目を振りまくスピーカーになるよりは、1人でありのままの思索を発信した方が、創造的運動だと思います。
振り子的な動きは危険の表れ 民主主義がなければ右でも左でもオーガニックでも腐敗する② 民主主義がなければ右でも左でもオーガニックでも腐敗する