ちょうど1ヶ月ほど前に「元気なおばあさんに会った」を記した。今日も仕事で向かった打ち合わせのあと、日程の確認をしようと、ある集落に立ち寄った。こういうケースでは手当たり次第に家に立ち寄ることはしない。ようすをうかがって、明らかに家に誰かがいそうな家を選ぶ。平日の昼間だから誰もいないことが多い。いたとしても返事のない家も珍しくなく、その反応によっても「あたり」と思うこともあれば「はずれ」と思うこともある。したがって、例えば軽トラックが停まっている、あるいは家の雰囲気で息遣い、とまでは言わないが人がいる気配をつかむ。
今日も呼び鈴を押すと、すぐに返事があった。「あたり」である。やはりおばあさんが顔を見せられたが、「おばあさん」と呼ぶには自分もおじいさんの仲間のようなもので、そろそろこういう表現は考えものかもしれない。背筋がピンとしていて、わたしの方が年寄りに見えるかもしれない。行事の日取りと場所がわかったら教えて欲しいとうかがったわけだが、やはりお年寄りで、さらに女性ともなると地域の行事には疎くなる。これはたいていどこでもそうであって、地域のことを中心に担うのは高齢者ではなく、もう少し下の年代だ。したがって行事の現在を知ろうと思っても聞けないことは多い。しかし、訪ねた行事のことは知っているようで日時を教えてくれた。さらに「場所は」と聞くと、すぐそこのようで外まで出てきてその場所を教えてくれた。やはり現在の状況を聞くとはっきりしたことはわからないのと、その意味を聞いてもはっきりしたことはわからないようだ。かつての話者は、女性でもある程度知識はあったが、これからのお年よりは、一層男女差がはっきりするのではないだろうか。例えば仕事上のことでも餅や餅屋がはっきりしてきて、分業化の進んだ現代では、トータルなことをなかなか聞けない。同じように、同じ空間にいても、会話をしないわけでもないだろうが、あまり情報共有がされないのが現代なのだ。
さて、日程と場所がわかったのでお暇しようと思ったのだが、おばあさんがいろいろ話してくれる。そして「どたらかな」、といつもどおり聞かれるので居住地を答えると、親近感を持たれて話は続く。なぜ親近感を持たれたかというと、飯田の方にお孫さんが働かれているようで、所帯を持たれて間もないようで飯田の方に住まわれているという。わたしの居住地が飯田ではないのはわかっていても、伊那のあたりからみれば、ひと括りの区域なのだろう。さらに飯島にどなたかが嫁がれているようで盛んに南方の話をされる。そこで「わたしは生まれは飯島で・・・」と話すと、さらに親近感を持たれて話は続く。おばあさんにとって南方は親しみ深いよう。それは近い人たちが南の方で働いたり、嫁いだり、、あるいは住んでいるからのようで、あらためて「南」を口にされて、「縁があるんだに」と言われる。
これまで日記では伊那谷の地域性や意識について盛ん触れてきた。これもまた批判の基になるかもしれないが、こういう会話を時おり訪ねた家でするのだが、逆パターンはほとんど記憶にない。どういう意味かというと、伊那市周辺はもちろん上伊那で親しく飯田市下伊那を口にされる方はいても、下伊那で同じような会話が始まったことがない。これがどうしてなのか、不思議に思うのだが、これもまた地域性、意識性といえるのかどうか。
話をしているうちに、亡くなった「母とおなじくらいかな」と思ってお年を聞くと、85歳と言われる。少し若いが、やはり母と同じくらいの世代だ。初見はもっと若い世代と感じたが、話の内容でそう思った。もちろん80代ですでに弱っている方もいるのだろうが、実はお年寄りでしっかりと話ができる人は大勢いるのだと気づかされる。今日も話好きなおばあさんに会えた。そして、ちょっと「おばあさん」と表現するには控えたくなるような感じの方だ。そして、たとえ新型コロナウイルスで世間が騒がれていても、お構いなしに話し続けられるその方に、こちらも親近感が持てた、というわけだ。いい出会いであった。
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