例年のごとく、ため池の草刈の日が近い。ということで、当日は参加しにくいため、あらかじめ刈り払い機による草刈をおこなった。関係者7名だから7分の1を刈ればよいところなのだが、何をしても嫌味やら、小言を言われるため、4分の1くらいを目安に、多めに草刈をしているのが、ここ数年のやり方だ。もちろん当日参加すれば、そのような「人より多く」やる必要などないが、いろいろと事情がある。以前も記したことと思うが、何年も前のこと、草を刈るものの、この時期に刈る草は丈が長く、そのまま刈り倒しておくと、ため池の土手を弱くしてしまう。ということで、必ず「草を寄せる」作業をここでは行う。事前に草刈をしたわたしは、あまりに丈が長いので、乾いて軽くなるまで待って寄せてもらえば良い、と思い、多めに刈って刈り倒したままにした。すると草刈の日に「○○は草を刈ったまま寄せもしない」と嫌味を言われたという。こちらの思いなどまったく意に介さない。翌年のことだ、では寄せる際に、遠いほど(草を寄せるのは、ため池の堤体尻の耕作放棄地に寄せる)苦労するだろうと思い、草を寄せるところから最も遠い位置の草を刈って、前年の嫌味も耳にしていたので、その草を寄せておいた。すると今度は、「やさしいところばっか刈って」と嫌味を言われたのだ。確かに遠いところは草丈が比較的短い。刈り難いところを刈っても、あえて草寄せの大変なところを刈っても、何をしても小言を言われるから、草刈をした際に草寄せがしやすいように、そして草を刈る範囲は広めに、そして刈り難い箇所も刈って、わが家の作業分とさせてもらっているが、それでも影では何を言われているものか…。
そもそも草を寄せている耕作放棄地はわが家の土地。ため池の法面の草を、下にかき寄せたところにあるから、苦労がない。この状況でも嫌味を言われるほど、わが家は肩身の狭い思いをさせられている。この異様な地域社会を研究しないで良いものか…、と思ってわたしは研究対象にしている。その基礎資料としようと始めたものが、“ある「常会」の記録”である。
今年は、事前に耕作放棄地の草刈を1度行っている。ため池の草刈をするたびに、わが家の荒れ放題の土地を一度刈っておくと、ため池の草刈もしやすい、と毎年感じていた。ようやくそれを実践できた。その通り、今日の草刈は、昨年と同じ範囲を刈ったものの、それほど時間を要さなかった。草丈を伸ばしてしまうと、刈るのにも大変だと言う事実である。荒れ果てた空間を刈った際に、ため池の法面に背丈以上に伸びるはずの太い草も少し刈っておいた。それが大きかった。この地域社会で、最も「草刈」をたくさんするのは、紛れもなくよそ者の「わたし」である。
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