宮下一郎氏は、「春日街道考」を昭和37年6月に発行された『伊那路』(通巻66号)に寄稿している。正確に執筆分担が記載されていないが、後の昭和40年に発行された『長野県上伊那誌歴史篇』の近世編「春日街道」は、上伊那誌歴史部長であった宮下一郎氏が執筆していることが、本寄稿からうかがえる。「宮下一郎」と聞くと、現在の伊那谷では誰しも衆議院議員の「宮下一郎」代議士を思い浮かべるだろう。しかし、古い時代の、それも郷土史を少しでもかじった人は、郷土史家「宮下一郎」先生を思い浮かべる。ネットのない時代に活躍された方の名は、せいぜい出版録から検索されるぐらいで、それほどネット上には登場しない。「上伊那郷土研究会のブログ」における田中清文氏による「名工伝 守屋貞治 守屋家石工三代百年の足跡」の序文において、田中氏が次のように記している。「私は小学6年生の幼少期に、駒ケ根郷土研究会の会員であった。会員のほとんどが70歳以上の年輩の方々であり、中には第2代駒ケ根市長であられた北原名田造氏もおられ、市長退任後は会長として会員をまとめておられた。部長には日本画家の佐藤雪洞先生、植物学の木下義男先生、郷土史家の宮下一郎先生など、郷土学の大家の先生が大勢おられ、10歳の年端も行かない自分にとって場違いの会に入会したと後悔した。」という。宮下氏は駒ヶ根市東伊那の方だった。田中氏とわたしでは世代が異なるが、わたしも同じような感想を抱いたことがあったので、引用させてもらった。記憶が定かではないが、宮下一郎先生には、1度お会いしたことがある。上伊那郷土研究会の研究例会のようなものだっただろうか、まだ10代のころのことだ。以上余談である。
「春日街道」の名は、伊那市周辺の人々にとってみれば、かなり親しい道の名である。知っている道の名前は?、と聞くとおそらく国道153号や広域農道といった現代の道路並に、この名を挙げる人がいるだろう。いわゆる主要地方道伊那・箕輪線を現在は、そう呼ぶ。慶長6年(1601年)に京極高知のあとをうけた飯田城主小笠原秀政が開削したと言われる春日街道は、伊那街道に並行する直線道路としたという。宮下氏はこの街道の開削の主旨について、「庶民の利便を考えの軸にして作られた道ではなく、支配者である城主に必要な物資を能率的に運ぶための道であるから敢えて集落を連絡する必要はないわけでこの点が後世の庶民中心の中馬街道等と大いに異なる所以である」と述べている。
そもそも春日街道と言われる道は木曽山脈の山すそを開削したと言われており、故に「盗人道」ともいわれると、子どものころに聞いた覚えがある。ようは山裾の人とは無縁なような場所を通っている、というのがわたしの印象であった。ところが伊那に行くと、山裾ではなく、扇央のようなところを通っている道をそう呼んでいて、違和感があったもの。『長野県上伊那誌歴史篇』の記述において、その道筋について「南から大沢(上片桐)、北村(七久保)岩間・春日平(以上飯島)横前新田・北原(以上赤穂)新田・北割(以上宮田)諏訪形・柳沢(以上西春近)大黒原(伊那市)沢尻・大泉(以上南箕輪)を通って松島・大出(以上中箕輪)に至り、北大出・宮木の西方を経て小野方面に向かっている」と記している。ようは沢尻から北大出といったあたりは、現在の春日街道のあたりまで山裾から下っていたというわけだ。故に、人里離れた場所なら、今なお頻繁に口にされる「春日街道」とはならなかったのだろうが、比較的現在は人通りの多いエリアにあったが故、親しみ深い名として現在も使われているというわけだ。
かつて地名研究の研究会に参加した際に、古道東山道の跡を追った企画があった。その際に訪れた現在の箕輪町深沢川の渡河地点は、いわゆる春日街道の渡河地点と同じ場所であった。まっすぐな道を造るには、谷の浅い位置を通らなくてはまっすぐにはならない。故に、東山道の渡河地点を、春日街道が利用したのかもしれない。
さて、人里を通らないまっすぐな道路、と聞くと何かを思い出す。リニア中央新幹線である。まさに「支配者に必要な人を能率的に運ぶための道」である。
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