今年も始まった。区切りの年に向かうわけだが、何度も記している通り、きれいさっぱり整理できるか微妙だ。「あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします」と人と会うたびに挨拶することの「面倒くささ」が性格上こたえる。前向きのなさが顔にも出てしまうのだが、正月からこのようなことを思っているのも、性格上の問題なのかも。コロナ禍で人との接触がないことへの疑問を呈しながらも、こうしたことを記す自分なのだから、コロナ禍幸いということになるのに、やはり疑問は疑問として口にする。二つの顔を持つ自分は、結局悪い性格を補うようにさまざまな接触からもう一人の自分を持ち合わせることができた要因なのだろう。
とはいえ、歳にもかかわらず、仕事でも家でもずっとパソコンを覗いているせいなのか、視力の変化は著しい。少し前までは近視用のメガネをかけていてもキーを打てたのに、このごろはメガネの隙間からディスプレイを覗いて文字を打つことがほとんどとなった。そのため打ち間違えが多くなった。校正しないと打ったものをそのまま公開すると誤字だらけだ。このごろはここに書いているようなどうでも良いことは気にせず載せてしまうが、少し内容のあるものは、ワードへコピペして校正機能で確認した後に公開するようになった。どんどん機械頼みになっていくが、そもそも最近のパソコン、というか日本語変換機能は思うような文字に変換されなくなった。時代背景があるのかないのか、そのあたりはよくわからないが、すべてにおいてパソコンが使いづらくなりつつある。手で、指先で、全てを処理していた時代から、パソコンに全てをゆだねる時代に変わり、その両者を持ち合わせた世代。一昨年の年末に業務上のことで記したが、線を引く際のアプローチが今の若者は違うと気づいたとき、それも当たり前かと思った。そもそも手で線を引いたことがほとんどないのだから、定規を使うということもよく解っていない。自分の手先で線が引かれるのではなく、パソコン上のソフトが引いてくれる。確かにマウスに指先を託して引くのだが、かつてのように定規をあてて引くのとは全く世界が違う。世間では同じような出来事や、行為がたくさん発生しているのだろうが、気づいていないことが多い。にもかかわらず、意外に昔の人と同じような意識を持ち合わせている若者に出会うと、その背景に何があるのか、興味深く思う。そうした違和感を楽しみたいと思っているが、なかなか時間はない。
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