Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代人にはできない「もらい風呂」

2009-05-03 23:15:13 | ひとから学ぶ
 前にも触れたことがある。息子が風呂に入った後には垢というよりもなにやら物体が浮いている。母に言うと「新陳代謝が激しいから」という。小さな子どもが入った後も、そこそこ汚れは激しいもの。仕方のないことではあるが、息子には風呂に入る前に身体を洗うようにと以前言ったこともある。しかし、そんなことはおかまいなしである。毎日のように風呂に入っていればまだしも、風呂が嫌いなのか面倒くさいのか、めったに風呂に入らない。母には毎日のように「風呂に入りな」と言われているのに、なかなか実践できない。ただでさえ間際に起きてぎりぎりに家を出るのに、ときには朝方シャワーを浴びることもある。

 昨日も久しぶりに息子が風呂に入った。息子が入ると汚れるのが解っているから、先に入ろうとしていのに息子に先をこされた。何日か変えずに使っていた風呂の湯は、当然のように息子の入った後の風呂は見事に汚れていた。加えていつになく長時間入っていた。新陳代謝が激しいのか長く浸かっているうちに身体の腐敗物がぬぐわれたようだ。次に入ったわたしは、風呂の蓋を開けてすぐに浮いている綿毛のようなものに気がついた。それをとりあえずすくって風呂に浸かったが、間近に見ると湯面に浮遊しているものはもちろんであるが、水中にも白いようなものがたくさん浮いている。今だかつてないほどの浮遊物。それらをすくおうと桶で取り除いていくが、きりがない。あきらめて身体が温まったら洗い流して出ることにした。

 風呂を出ると母に「入る」と聞くと「入る」という。「風呂の湯を変えた方がよいかも」と説明すると、「お湯がもったいない」といって「入らない」という。この日、妻は田んぼの畦の草刈をしていたこともあり、本当は入りたかったのだろうが、疲れていたこともあって入らないと決断した。息子に「先に風呂に入りなさい」と毎日のように言う妻であるが、こんな風呂を見ると言うもののためらうものもあるだろう。わたしなどは解っているから息子が入る前に入りたいと最近はいつも思っている。そんな話をしながら妻と風呂談議となった。妻の友達は嫁に行った先で義父と主人が風呂に入ると風呂を変えるという。どの程度汚れがひどいのか見たこともない妻にも想像がつかないが、毎日風呂を変えているのに二人が入ると変えるというから我が家以上である。考えてみれば家族が多ければ毎日変えたって終いには汚れは目立つだろう。妻も友人に「先に入れば」と言ったようだが、義父が野良から帰ってくるとすぐに風呂に入り、風呂上りのビールを楽しみにしているということで叶わないことだという。妻のおじさんが口にするのは、「温泉などいかない」である。なぜならば不特定多数の人が入浴する温泉、それも循環しているようなところではとても汚いのは解りきっていること。ゆっくり自宅の湯に浸かるのが一番ということになる。

 かつて「もらい風呂」が当たり前のように行われた。水汲みが大変だったということもあるだろうし、焚くことも大変だった。毎日風呂を沸かすなどという贅沢はできなかったから、近所で融通しあった。かつてのそんなもらい風呂のことを聞き取りすると、沸かした家の嫁はみんなが風呂に入った最後に入ることになる。すでに風呂は汚れでどろどろだったという話は常の話のように聞いた。それでもかつては明かりも暗かったこともあって、それでも入れたのだろう。現代のように昼間のような明かりの下では、なかなかできないことである。現代人にできないかつての暮らしの事例として真っ先に上げられるのが、「もらい風呂」の風習だろう。おそらく10人いれば10人「二度ととしたくない」と言うに違いない。にも関わらず温泉は流行るのだから不思議なものである。わたしもかつては温泉好きであったが、今は遠慮したい口である。

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