Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

神札の在り処

2023-01-03 23:45:29 | つぶやき

 年末に記した「年末年始休業」において、この休みにやらなければならないことをメモに記したと書いたのだが、その休みもお終いだ。結局いくつか完全に終わらせることができず、まったく手をつけられなかったことが1件残った。無理な計画を立てたわけではなかっのだが、どこかで自分に甘えてしまう。想定外のことが起きてしまうこともあるが、そのあたりも予測して建てた計画だったはずだ。もちろんどこかで自らに「期待」を込めた部分もあるが、現実はいつもこんな感じだ。変わり映えしない自分に落ち込んでいても仕方なく、ひとつひとつ次へと進むしかない。

 こうした現実に苛まれるたびに、「神頼みはない」と実感してきた。だから、というわけではないが、我が家はひどいもので、自治会から届けられた(最近は自治会を通して配布される)神社のお札も、何年も前のものまで、神棚にあげられず、配布されて「とりあえず」と置いておいた棚にそのままにされていて、気がつけば束になっていたということも珍しくない。我が家のある地域では氏子となっている神社が二つと、崇敬者となっている神社がひとつあって、毎年三つのお札が配布されてくる。「ありがたい」と思っていないということになるだろうか、そのまま忘れてしまうということは…。なぜそうなるかといえば、自分の意志でお札を「購入している」という印象がないからだ。したがってよそのお祭りに行って、自分の意志で手に入れてきたお札は、神棚にいまもってあがっていて、「あれはあの時にいただいてきたもの」とはっきり記憶にある。もちろん1年経てばホンヤリで焼くべきなのだろうが、思い入れがあるからそのままになっている。いっぽう地元で当たり前に配布されてくるお札には、全く思い入れがない。妻には度々「民俗やっているのに、いいの?」と言われるが、民俗を調べているからと言って信心深いわけではないし、それも「民俗」だと自ら体現している。

 週末にはホンヤリがあることから、束になっているお札は、神棚にあげられることなく、そのままお焚き上げということになる、というよりは忘れずに「持って行かなくては」と思っている。加えて年明けに配布されるだろうお札2枚、今年は忘れずに神棚にあげるようにと、今は思っている。


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