昭和63年5月1日発行の『遙北通信』第60号へ、「和歌山県南部町芝 猪野山観音の道祖神」を報告した。
田辺市の西に接する南部町の街を眼下に眺められる、猪野山観音の境内にこの道祖神がある。
昭和55年、JR南部麒東側の猪野山で道路工事の際、山中から巨大な男根石が発掘されたもので、長さ68cm、頭部の周囲は105cmの自然石である。見る場所を変えると、桃われごとき筋がはいり、女陰形にも見られる。
「今昔物語」に熊野詣での帰途、天王寺の僧道公が疫病神に酷使される道祖神の難儀を救い、その依頼を受けて『法華経』を諭し、道祖神を観音の浄土に転生させた一節がある。
この道祖神を訪れたのは、昭和61年3月15日のこと。まつり同好会の紀州見学の際に、運転手で行った。高野山から南部スカイラインを経て当時の南部町に入った。主旨は田辺市の闘鶏神社の祭礼だったが、南部梅園や田辺市の磯間岩陰遺跡のほか、回想“まつりの旅”でも触れた南方熊楠の墓参りもした。田中義広氏の「紀州見学」(『まつり通信』304)に詳しく報告されているが、この猪山観音のことは一切触れられていない。
ところで、「和歌山県ふるさとアーカイブ」というページに「猪野山の道祖神」が公開されている。引用は『みなべの民話伝説集』という。下記のようなものである。
猪野山(いのやま)の道祖神(どうそじん)
千年あまりも前に祀られていた 南部の道祖神が その後 消えてなくなり 何百年も行方しれずになっていたのが どうしたことか 最近になって 猪の山のふもとで 土の中に埋もれていたのが 見つかりました。
それで「猪野山道祖神」として ねんごろに祀られています。
さて この道祖神は 猪野山に祀られていたわけですが いつ頃から祀られていたかは はっきりしません。でも 千年前ごろには 祀られていた事が「今昔物語」(平安時代の本)の中に出ている事から分かります。
その内容は 次のような物語です。
天王寺の和尚さんで 「道公」という人がいて よく熊野詣でをしていました。
ある年 熊野からの帰りに 南部の海辺にさしかかった時 すっかり日が暮れてしまったので 近くにある大きな木の下に 野宿をすることにしました。
夜半頃になって 馬に乗った人が二十~三十人程来ました。
「誰だろう」と思っているとその中の一人が木の傍に来て 「翁はおられるか」 すると 木の根元から 「ここにいる」という声がするのです。
道公はびっくりして 「他にも 木の下で野宿していた人がいたのか」 おそるおそる辺りを見廻しましたが 老人らしい人影は見えません。
やって来た人たちは 老人を馬に乗せて連れて行こう と 相談しています。でも 姿の見えない老人は「馬の脚が折れているので それが治ってから行く」
と言ったので 人々は どこへともなく消えるようにいなくなってしまいました。
道公は 夜の明けるのを待ちかねて 木の周りを改めて見ますと 人のいる様子もなく ただ かなり年月が経っているのでしょう 苔むした 石の道祖神が 根元に祀られているだけでした。
その前に 板に画かれた絵馬がかかっており その馬の脚の部分が破れていました。
道公は それを見て 昨夜の声の主は この道祖神に違いないと思い 絵馬の脚の部分を繕って元の所にかけ もう一晩 様子を見ることにしました。
やがて夜になり 夜半の頃になると 昨夜と同じように 人々が馬に乗ってやって来て 何やら 話したと思うと 翁も馬に乗り どこかへ行ってしまいました。
明け方になって 翁一人が現われ 道公に
「馬の脚を治してもらったおかげで 私は 神の勤めを果たすことが出来た。もし 昨夜から勤めに出ることが出来なかったら ひどい仕打ちを受けるところだった。私は この下品な姿から 功徳の身になることが出来た。これもみな そなたのおかげだ」と 礼を言いました。
「私は そのような功徳も力もない者です」
道公が答えると 翁は
「後三日 この木の下で法華経を唱えてくれれば 私も そなたも 共に極楽に生まれるから」
と言って姿を消しました。
道公は 言われる通り 三日の間 一心不乱に法華経を唱え 四日目の夜明けを迎えたところ 翁が再び現われ
「私は菩薩の位になれました 疑うなら その木の皮で 小さな柴舟を作り 海に浮かべてみよ」
と言って 煙のように消えました。
道公は 言われるまま 柴舟を作って海に浮かべると 舟は金色の光を放ちながら 南をさして 滑るように走り去りました。
道公は 波打ち際にひれ伏し 涙ながら手を合わせ法華経を唱えました。
このように いわれのある道祖神の御神体が 何百年経った現代の世になって発見された事は なにかを感ぜずにはいられません。
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