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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝山の神〟再考 ③

2025-01-18 23:27:39 | 民俗学

〝山の神〟再考 ②より

 山の神の祭りの呼び名についても『長野県史民俗編』総説Ⅰの「民間信仰」の節「山の神の祭り」の中で「山の神-祭りの呼び名-」と題した民俗地図にして県内の分布が示されている。あえて同じことをわたしも作図してみたわけだが、驚いたことに分布の姿に地域性を見いだすような記号を選択していたら、結果的に似たような記号を拾うことになった。先般の長野県民俗の会第244回例会(1月11日開催)において、民俗学会でグループ発表したことに触れ、この後のことが雑談で話題になったが、福澤昭司氏は「結局いろいろ図を作成してみたが、『長野県史』以上の図を示すのは難しいかもしれない」というようなことを口にされた。確かに今回の図を作成してみて、結果的に同じことを提示しているとすれば、同じことのトレースに過ぎないことになる。ただし、GISを利用することによってほかの図と重ねることはできる。そのメリットを利用して新たな発見をすることが求められることになるのかもしれない。

 いずれにせよ、今回作成した図「山の神の祭りの呼び名」は、刊行された県史からの引用ではなく、その下資料から図化してみたもの。必ずしも一致しないわけだが、この図から解ることをまとめておこう。山の神様あるいは山の神の祭りなどと称している地域は全県に分布する。ただし記号そのものの密度が南信のとくに南部に薄いことがわかるだろう。この地域では山の神信仰そのものが薄いという印象を受ける。印象だけではなく実際事例数が少ないということは、山の神に対しての意識が低いことを示すことになるのだろう。後述する予定だが、調査資料を見ていて気がつくのは山の神を信仰している人たちのことである。とくに資料に目立つのは昔はムラ全体で信仰していたが、今は山に関わる仕事をしている人たちだけで祭っているという書き込みである。調査された年代が昭和40年代後半。とすると既に山の仕事は昔のように誰でも関わっていた時代ではなく、農業における山への依存度も低下していただろう。したがって山の神への信仰がすでに希薄化していた時代と言える。とくに平地の山から遠い地点での回答には、山仕事の従事者だけの祭りという捉え方が強いように思われた。

 そうした背景を前提に図から見える地域性をうかがってみると、特徴的なものは十二様地帯である。山の神を「十二様」と呼ぶ地域が栄村に多い。図からはそれが読み取りにくいが、北信域に十二様という記号がみられる。また「山の講」と呼ぶ地域が際立つのは下伊那南部である。さらに木曽谷まで続く。北安曇にも見られるがどことなくこの分布は中央構造線の西側に分布しているとも受け取れる(正確には東にも記号は見られるが)。もうひとつ、やはり上伊那であるが、「トオカンヤ」の記号が落ちているのは上伊那に限定されている。

 

 その上で山の神の祭りでよく供えられる、あるいは射られる弓矢のことを図化してみたものが「山の神の祭りの弓矢」である。弓矢が祭りに供えられるかどうかは記号のあるなしで判断できよう。したがって北信、東信に集中し、南信にはほとんど記号が落ちていないことが解る。その上で使われる樹種が記載されているものについては樹種別に記号変えてみた。長野市近辺にはウツギの木を利用するところが多く、しなる木を利用していることが解る。

続く


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