ブラック企業とは「労働条件や就業環境が劣悪で、従業員に過重な負担を強いる企業や法人。長時間労ち働や過剰なノルマの常態化、セクハラやパワハラの放置、法令に抵触する営業行為の強要といった反社会的な実態がある。ブラック会社。」(デジタル大辞泉)と言うのが今の通常解釈だろうか。ウィキペディアでは「広義としては暴力団などの反社会的団体との繋がりを持つなど違法行為を常態化させた会社を指し、狭義には新興産業において若者を大量に採用し、過重労働・違法労働によって使いつぶし、次々と離職に追い込む成長大企業を指す。」とあるから、まさに「黒い」企業だったのだろうが、今や労働条件、とりわけ長時間労働に対してそれ相応の報酬を支払っていないような会社を「ブラック」ということが多く、昔からあった言葉なのに近年よく耳にするようになった。取ることなど不可能なのに、「残業は代休で」というような会社はブラック企業のようなものだが、当てはめると息子の勤務先も似たようなものだ。とはいえ、かつてのわたしの会社に比較したら、早く帰ってくるし、休日出勤も少ないかもしれない。ということはわたしの会社もその一味だったが、今はそういうことはない。意外に「ブラック」なのは公務員の勤務先に多い。もちろんその残業が必要かどうかは異論もあろうが、学校の先生などまさに「ブラック」なのに、何も変わらない。
昔にくらべると明らかに日本人は働かなくなったが、だからといって昔が良かったなどとは言わない。「働く」とはどういうことなのかも整理しなければならない。たとえば主婦は働いていないかといえば、そんなことはない。家事も子育ても仕事に違いない。しかし、今もってそうした労働を労働として捉えられない人が多い。安室知氏は「稼ぎ」(『暮らしの中の民俗学2-一年-』吉川弘文館)のなかで、昭和4年の長野県北部のある農家の1年間の労働時間について述べている。主婦である女性の1年間の農事労働と家事労働の合計が3049時間に達していたという(家族の中で最大)。現在の月20日として12か月の1日8時間労働としたら1920時間(内家事労働1155時間)となる。差引1129時間。考えてみれば、先ごろ安倍首相が口にされた月最大100時間までの超勤だとすると、この数字がほぼ同数にあたる。これをどう捉えるかであるが、家族の中で母を除いて最も労働時間が多かった祖父の2550時間を考えると、超勤100時間をもし1年間続けるとしたら、やはり現代には似合わない数字だと言えるのだろう。
家事労働が「稼ぎ」と捉えられない現代事情もある。前述の長野県北部の昭和4年の事例は、家族労働の中の「母」の労働時間である。家族であればそれぞれの役割が発生する。家事を母が行なうからこそ、父も、祖父も、それぞれの労働を重ねられる。ところが現代では核家族化、そして孤立化することで、家事はそれぞれが自らの生活の中でこなすようになった。もちろんそこに「稼ぎ」意識など発生するはずもない。生産的でない労働も、家族の中でトータルに成り立っていたはずが、虚しくも全くの無駄なものとなってしまう。「稼ぎ」は、事実上賃金を伴う労働に限られてしまったというわけだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます