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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑧

2018-06-07 23:07:24 | 農村環境

遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑦より

 

4 川と湧水

 次に景観や情景といったものを中心に、ほ場整備によって変わったものに触れてみる。

 事例18にあるように石曽根には唐沢川という川が流れていた。現在は一級河川として管理されているが、整備前は河川というよりも身近な川として親しまれていた。川から汲んだ水を炊事や顔洗いに使ったり、カブ菜を洗う時は近所の衆がショイタに背負ってきてこの川で洗ったという。また、事例24のように、増水の時は川を渡ることができず、同じ隣組の川向こうへ回状を回すために弓を作って飛ばしたという。同じ事例18にある本郷一の場合も農業用の用水路を川と称しており、この川の水を利用して顔を洗ったり、洗物をしたという。水の汚れがなかったことで川の水がそのまま利用された。しかし、ほ場整備によって川は一変した。唐沢川はほ場整備と合わせて河川改修が行なわれ、コンクリートで固められた真っ直ぐな川に変わった。川底まで二メートル以上もあるため、とても川へ降りることはできず、おのずと川の水の利用はできなくなった。事例30にあるような、ウナギやアメノウオの姿はなくなり、川の空間が隔絶された。いっぽう用水路程度の小さな川も次第に水の汚れが目立つようになった。資料2の昭和56年の欄に、飯島町広報に掲載された「川の汚れアンケートの結果」の中の一文面がある。これによると、広報編集者は「今までは、水田へ流していた排水も、ほ場整備で水路が整備され、直接川への放流が進んでいると考えられます」と述べている。宅地の排水路がまともに整備されていなかった整備以前には、生活用水を田んぼを介して流していた。時代は科学洗剤全盛に向かうとともに、汚れが目立っていったわけである。ここ5年ほど穂高町の町の西側でほ場整備が行なわれている。烏川から取水された用水を利用しているある地区の整備前の水は、まさしく安曇野の湧水をたたえた美しい川の流れを見せていた。ところが、ほ場整備されコンクリートの水路になったとたんにコンクリートの表面にアオコが付き、あらためて水が汚れていたことを気づかせた。

 川の水ばかりではない。事例19にあるように、ドイバという所があって共同井戸として利用していたという。また、個人の家でも横井戸やたて井戸があったというが、ほ場整備で水が枯れてしまった。とくに飲料水は井戸の水を利用していたものの、当時すでに水道が整備されていたため、整備を契機になくなっても仕方ないモノとして捉えられていたようである。おなじようなモノとしてイケス(池)がある。事例20のように、かつての家の敷地には池がどこの家でもあった。池には必ず鯉が飼われていたもので、台所の排水はこの池を介して屋敷の外へ出て行っていたという。また、池を利用して大きなものを洗っていたという。こうした池もほ場整備とともに川の位置が変わり、あきらめてしまう人が多かった。また、湧水を利用していた池もあったが、同様に整備とともに水が切れてしまった。現在も池のある家を見るが、かつての池とは異なり鑑賞用の庭園風のもので、池を複合的に利用するものではなくなった。

 整備前の水田は沼田が多かったという。事例35にあるように、ほ場整備前の川沿いの田んぼには、山側に必ずしけ抜きがあって、畦で仕切ってあったという。そして、しけ水と泥が溜まっている溝にはドジョウがいてこのドジョウを捕った。こうした沼田を少しでも排水を良くするために、ほ場整備前に暗渠排水が行なわれた。この排水を利用した池も多く、水が貴重であっただけに取った水は有効に利用されていた。

 

5 子どものころの情景

 最後に子どものころの覚えているものを情景として捉えてみる。田んぼのなかや道ばたにあった巨石、立ち木は印象深いものとして記憶に残る。事例39にある石の窪みは、地域によってはヨモギなどで長年石をつついているうちにできたともいう。「石やさ駒場穴掘って通れ」といううたは、伊那谷南部でこうした遊びの際によく歌われた。幾世代か続けられた遊びによって伝えられた印象深い窪みでもあった。こうした石も撤去されて現在はなくなった。事例30や36のようにウナギやアメノウオ、カジカといったものを捕りに川へ出かけたわけで、子どもは川でよく遊んだ。そうした川もなくなった。

 こうした流れから、ほ場整備を契機として子どもたちは外で遊ばなくなったという。事例40にあるように子どもたちが農業に関わっていたころは、手伝うことが当たり前のことは知っていても、なかなか手伝うことへの抵抗もあったという。そうしたなかの休みの時間というものは、子どもたちにとっては待ち遠しいものだった。事例のように家で飲むお茶とは違う雰囲気がそこにはあった。そして、いつまでも休んでいたいものの、土手に下ろした腰をあげる時の一瞬が印象深く残っているという。事例のように必ず父親が先に立って仕事を始めることを子ども心に感じ取っていた。母親の役割、父親の役割のようなものを、田んぼのある空間で無意識にとらえていた。また、霧の中に稲はざがあって、その隣では列車が通り、赤土の上を流れる川の水音、藁の匂いといった具合に、情景が浮かぶという。脱穀後の藁を積んだ間を利用したかくれんぼの印象を語る事例38のように、稲がなくなったあとの田んぼの空間は、遊びの場として自由に使えるようになり、空間の広がりというか、なにか秋の広がりのようなものを捉えていたという。

 

おわりに

 以上五つに分けてほ場整備によって変化したものを捉えてみた。高度経済成長が民俗の変化変容とかかわってきたということは今まで一般にとりあげられてきており、ここでいうまでもないが、そうした時代における変化の契機としてほ場整備があった。必ずしもほ場整備が直接的な要因ではなかったという意見もある。しかし、さまざまな事象に対する経験の有無によって人々の実感は異なるわけで、ほ場整備を境にしてなくなってしまった景観のなかでは、それ以前のことを経験することはできなくなった。

 こうしてみてくるとほ場整備が行なわれていない地域はどうかということになるだろう。しかし、ここで紹介した飯島町のように1000ヘクタールという大規模な未整備地域というのはなくなった。したがって山間部にある小規模な地域との比較しか現在はできなくなっている。そうしたなか、例えば伊那谷の山間に入った整備のされていない地域の畦をみてみると、草刈をしたあとに干草を処理しないとモグラがやってきて土手が弱くなるといってきれいに片付けている。畦の空間は人との境界にあって、さまざまな葛藤がある。かつての共通認識が薄れ、個々の考えが重要視されるなか、伊那市美すずの整備された田んぼでは、篤農家が隣の刈った土手草が刈り倒されたまま放置されているのを見て、自分の土地にその草が風で吹いて入ることを嫌って刈った人の田んぼへ投げ入れるという。周りではこの篤農家に対して困った人だと陰口をするという。手をかけようとしない伊那市の事例と、山間の前例との間には意識の違いがある。もちろん山間地域でも変化したものはあるが、稲作は現在でも個人が籾蒔きから収穫までを行う稲作が一般的である。稲刈、脱穀、臼引きといった作業は親戚の手を借りながら行なっている家も多く見られる。そして「初物が採れたら東を向いて笑って食べるものだ」と、現在でも子どもに教えるという。明らかに専門化した農業に変わった飯島町のような地域とは異なり、同じように見える水田地帯の背景で生活する人々の意識に差がある。

 ここまでの変化をまとめてみると、専門化した農業からは篤農家や多くの農民の行動を観察しながら収量をあげようとしていた工夫が失われた。それとともにかつてに比べると人々が顔を合わせなくなったといえる。人に遠慮するようになるとともに、ほ場整備された際の換地作業において、人々は境界意識を自らのなかで確認する。土手によその者が足を踏み入れても何も文句は言われなかったかつてに比べると、境界意識の強まりに加えて、人々が外を歩かなくなり、田んぼの畦は個人の物に変わったといえる。よその畦を歩くと注意されたり、フキノトウやヨモギといった山菜も人の土地で採ることはあまりなくなった。

 最近民俗学では、現代社会に起きているさまざまな問題にどう寄与することができるか、内省の学として何ができるか、と問われている。そうしたなか、「民俗学が村の再生という現代的な問題に関わるときに持っていなければならない視点は、社会生活や家族生活の中の種々の制約を解き放つ方向のものでなければならない」という指摘がある(註1)。ここで、報告してきたものは恐らく再生するために地域が選択したほ場整備を契機とした変化であった。しかし、しきたりや習わしが古き悪いものであったとしてしまうだけでは、さまざまな問題に寄与できないようにも思う。生活の向上を願って選択された道を振り返り、人々は何を失い、何を残したかったのかというところを地域の事情や他地域との比較の中から捉えることが必要ではないだろうか。そうしたことで、現代社会、とりわけ農村のさまざまな問題解決に寄与することができるだろうと考える。

 

付記 本稿は平成12年10月22日の地方史研究協議会大会において、民俗学の立場から共通論題に対して発表したものである。小林経廣氏より、向上する水田耕作の変遷を課題として究明すべきであった(註2)と指摘された。本発表内容は価値判断としては妥当性に欠けるものだったという指摘ととらえるが、環境の時代とか循環型社会の見直しが盛んな現在、内省の学として民俗学があるならば、民俗学だからこそとらえることのできた課題であったと思う。

 不十分な内容ながら、発表の機会を与えて下さった信濃史学会ならびに地方史研究協議会の方々にこの場をかりて感謝申し上げます。

 

註1 山本質素「現代社会と民俗」過疎化と村の再生(『現代日本民俗学入門』佐野賢治・谷口貢・中込睦子・古家信平編 吉川弘文館 1996)

  2 小林経廣「大会テーマ「信濃―生活環境の歴史的変遷―」によせて―「圃場整備による生活と意識の変化」を中心に―」(『信濃』第53巻第4号 2001)

 

 これはあくまでも昭和時代のほ場整備を対象にしたものである。そもそも現代において、これほど大規模なほ場整備は行われていない。周囲に宅地がある、あるいは宅地がほ場整備内に混在しているとしても、一部の人々だけのものに限られている。しかしほぼ全域が整備されるとなると、空間は一変する。必ずしもほ場整備を機に変化したといえず、いずれ変化したに違いない事象としても、一大事象であったことに違いはない。あとがきにも記したように、稲作は個人が籾蒔きから収穫までを行う稲作が一般的であったが、ここへきてその光景は変化してきている。今や個人が稲作をすることは許されないほど、農政事情は変わってきている。農政に翻弄されながら、今の農村空間は出来上がった。そう考えると、このような視点でほ場整備を捉えるのし“滑稽”なのかもしれない。だからこそ表題に「遠ざかる記憶」とあげたのだ。

続く


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