Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑦

2018-06-06 23:28:53 | 農村環境

遠ざかる記憶“ほ場整備”⑥より

 前回に引き続き、平成12年10月22日、松本市Mウイングで開催された地方史研究協議会松本大会において、民俗学の立場から共通論題「信濃-生活環境の歴史的変遷-」に対して発表したものについて、下記に引用する。

 

 1 畦

 

 まず畦について触れてみる。現在では山間部でも見られなくなったが、かつての畦は畦塗りが行なわれた。ほ場整備以前の土手は勾配が急で、畦そのものも狭く、漏水の原因だった。そうした漏水を防ぎ水持ちをよくするために行なわれたもので、どこの田んぼでも行なわれた。この作業は大変きつい作業で、畦畔ブロックといわれるコンクリートのブロックで代替する姿がほ場整備直前にはよく見られたが、畦と田んぼの間に亀裂ができ、土手が崩れる要因とも言われた。

 

 ほ場整備をした田んぼは畦の幅が従来より極端に広くなり、かつては一輪車を引くにもままならなかった畦が容易に行き来できるほどになった。この畦に整備前はさまざまな風景があった。事例45のように柿の木を植えていることもあれば、南天などの木があった。また、事例42のようにスガレ(クロスズメバチ)の巣がたくさんあった。土手草は手作業で刈られ、知らずに巣のあたりを刈ってスガレに刺されることもよくあったという。ほ場整備後はスガレが土手に巣を作ることはあまりなくなったともいえる。土手が重機で固められているため、巣を作る環境がなくなった。事例15にあるように、モグラの通り道があってそうした所を目当てに巣を作ったという。

 

 畦塗りをしたころにはこうした木の他に、畦を使って事例14のようにアゼマメを植えたという。また、畦にある草を利用していた。事例21のように薬草としてセンブリやユキノシタといった草が重宝がられた。季節になればオコジハンといった休憩時に草餅が出されたが、この草餅の原料であるヨモギもたくさん生えていたもので、土手の草は食用として利用されていた。子どもたちは学校帰りにスイコンボウを食べたもので、食べ過ぎてお腹を壊すこともあった。事例9のように家畜の餌を土手の草に頼っていた。夏場は草が豊富なものの、冬場は草が生えないため、彼岸明けに刈った草をニゴにしておき、農作業がほぼ終わるころに家に運んで保存して餌として利用したという。このように土手にはさまざまなものが生え、利用されていたわけである。

 

 もちろん事例37のように高いボタは子どものころの印象に残るような空間を作り、そうした所には火の見櫓といった目印になるものもあれば、高いということで辺りの景色を一望できる所でもあった。土手は単なる土手ではなく、情景として人々の印象に残っていたともいえる。

 

 いっぽう土手の空間は土地が貴重で、少しでも作り地を多くしたいという人々には厄介なものだった。土手の勾配を急にし、あるいは石積をして急にすることで、少しでも稲を植えるスペースを広くしようとした。松本市中山で聞いた話では、公の道であるアカセンを欠いて、少しでも自分の土地を増やそうとする人が多かったという。道を広げようとしても抵抗が強かったのは、こうした意識の現れといえるだろう。現在でも道路を広げるにあたり、土地が潰れてもなるべく畦畔だけにしてほしいという声を聞くのは、そうした作り地を減らしたくないという意識の現われといえる。しかし、今までの感覚でいけばどうでもよい空間を大きくすることに抵抗があるはずなのに、ほ場整備によってその空間が大きくなることを受け入れている。その変化がどこから出てきたのか、これはほ場整備だけによるものではなく、次に触れる農作業そのものの変化も要因とされるだろう。

  

 

2 農業と手伝い

 

 次に農業そのものと、子どもたちの手伝いについてみてみよう。参考事例にあげたものは、戦後機械化するなかでの変化である。

 

 飯島町で牛馬による作業が耕運機へ変わったのは昭和30年ころからで、一般的になったのは、昭和40年ころという。このころには家畜がどこの家にもいたもので、肉牛を飼っている家が多かった。しだいに家畜は多頭飼育という形で専門化していき、いっぽうで酪農家が減少していった。事例9のようなサイロが不要になった。レンゲを刈りとってサイロに踏み込むということはなくなり、田んぼからレンゲが姿をなくしていった。そのころから乗用のトラクターが現れ、機械化は稲作のさまざまな部分に浸透し、田植え機も一般的になる。こうした環境がほ場整備への機運をあげていったわけで、資料1における昭和47年の広報によるアピールに適応したともいえる。したがってほ場整備が農業の環境を変えたというよりも、機械化がほ場整備を呼び込んでいったといえる。機械化と同時に車社会の到来がある。この時期農家を担っていた人々が免許をとったわけで、自動車免許有無の境となった。田植え機の出現で、事例3のような苗取りはなくなり、ほ場整備とともに全くなくなったといえる。こうした流れは、事例2、3、4といったものを変えていった。そして、秋の収穫の風景は整備とともに変わったといえる。大型コンバインによる協業による作業の集約が始まり、営農組合が組織されて稲作は専門化する。山間部にいくと現在でも一般的な稲はざがなくなった。家畜がいなくなり、藁の使い道がなくなった。事例5にあるように稲刈りを小さなうちから手伝った子どもたちの経験はなくなり、一束になる位ずつ刈るには手が小さく、早く一束くらいをいっぺんに刈れるようになりたいという大人への憧れのようなものも当然経験することはなくなった。ハザまで稲を運ぶことが子どもの主な仕事だったが、ハシカくなるから嫌で仕方なく、手伝わなければならないという事実と葛藤していた。しかし、そうした経験もなくなった。手伝い休みといわれた農繁期の学校の休みが頼りにされていたものの、最近では子どもの手が不要となり、むしろ手伝い休みは困るという声さえ聞こえる。稲刈りが終わったあとの鎌あげで、夕飯に少し豪華なものが並ぶのが楽しみだったという子どもたちの意識もなくなったわけで、明らかにこうした現実を迎えた転機にほ場整備があったといえるだろう。

 

 事例17のように農作業が家の中でも一部の人に限られ、さらには農業の就業時間を大幅に減らしていく。野へ出ることがなくなり、一度も田んぼに入らない人も珍しくなくなった。昭和四○年代前半までの子どもたちの親の職業は農業が圧倒的に多かったといえる。これがほ場整備の声を聞きだす頃から減少し始め、現在では親の職業は農業と答える子どもは珍しくなった。資料1の年表、昭和四七年の備考欄に飯島町広報の内容を載せたが、まさしく他産業へ就業することになっていったわけである。農家は減らないものの、農業を知らない人々が増え初めていく。もちろん親が農業をしないようになると、子どもの姿が田んぼから消えていく。かつてはユイによって農作業を親戚や近所で助け合っていたものの、そうしたユイも不要になった。事例17にあるような近くにいながら嫁さんの顔を知らない、というのもうなずける。

 

 先に畦畔の大きさについて触れた。機械化により人々が農業に携わらなくなることにより、土地に対しての意識も変化したといえる。事例1のように、かつて篤農家の様子をみながら、自分の農作業の暦代わりにしていたという人も多いという。土手の草を刈るということは身の回りをきれいにするという感覚と同様で、たとえば草だらけの不精な畑や田んぼは「人様に恥ずかしい」という意識があったわけである。もちろん現在でもそうしたことは言われるが、個人主義全盛になるとともに、意に介しなくなったことも確かである。そうした意識の変化は、先に述べたような畦や、道を欠いても耕作地を増やそうという意識を変えた。

 

  

3 つきあい

 

 事例17にあるように、1年に1度も野に出ないことも珍しくなくなったということで、人々とのつきあいは随分減ったといえる。まず外に出ないことには人との付き合いはないわけで、人々が囲いを作って家の中に閉じこもってしまったともいえるだろう。飯島町本郷で聞いた話では、かつての新年会は隣組の家を順番に当番で回していたという。ところが初詣に遠くまでいけないとか、人の家で新年会をするには大変だということで廃止したという。ほ場整備によるものとはいえないものの、農業へ携わることがなくなるとともに、多くの家庭はサラリーマン化し、個々の生活を重視していったわけである。

 

 事例23のように、病人があって農作業が遅れたかというと、手伝いに行ったという。また、食べもので変わったものができると他所へ配ったという。助け合うことにより地域がまとまっていたわけで、そうしたこともほ場整備後にはまったくなくなったという。同じように事例41によると、昔は近所の人が通ると「お茶でも飲んできな」と誘ったり誘われたりしたという。ところが、そうしたこともなくなり、昔は年寄同士でよく行き来していたものの、最近の年寄は声もかけなくなったという。縁側というと、そうしたお茶を飲む空間として存在し、そうした縁側が道から見えていたわである。ところが、家が改築され、人々は生垣や塀を道路との間に作るようになり、人の家へ寄りがたくなっていった。玄関を入らないと人と合えないという意識が当然のようになる。したがって事例にあるように、最近は誘っても言葉だけでよその衆と話をする機会がなくなったという。ゲートボールでもしていればよその人と顔を合わすものの、ゲートボールをしない者はまったく顔すら見なくなった。「よその衆は何をやっとるら―」というおばあさんの気持ちもよくわかる。

 

 松本市中山西埴原では、牛伏川左岸に田んぼを持っている人が多かったという。昭和53年から平成3年にかけて飯島町と同じ県ぽといわれるほ場整備がこの左岸にあたる寿で行なわれた。こうした土地もほ場整備を契機に寿の人たちが買っていったという。もともと牛伏川左岸に中山の土地がくさびのように張り出していたもので、中河原という土手を境に中山と寿になっていた。ほ場整備により字界変更が行なわれ、ほ場整備を行なった下沖、中沖、あるき田、鈴の免といった約5ヘクタールの土地は寿に編入されたという。このように整備前は寿に耕作に行っていたため、寿白姫の子どもたちと遊んだという。よそのムラではあったが、どこの人だかだいたいわかったという。いっぽうで中山の中でも和泉や二山といった北側の人たちとは交流がなく、どこの人だかわからないという。このようにほ場整備により字界が変更されたり集団化されることにより、よそとの交流がなくなることもあった。

 

 事例22のように家のそばを通っていた道がほ場整備で遠くなり、隣に行くにもずいぶん遠くなったと印象を語る人もいる。区画が大きくなることで、人との距離が遠くなったことを現す事例といえるだろう。

(『信濃』54-9 2002年)

 

 

 文中の事例については前回の資料2を参照されたい。

 

続く

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
« 「鍾水豊物」余話 続編 | トップ | 遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑧ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

農村環境」カテゴリの最新記事