“老いる・中編”において、……「福祉」は「社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福」であるはずなのだが、介護に限らずそのほかの「福祉」もまた福祉を受ける側の弱者のためのもの、という捉え方ができるだろう。それをとりまく健常者に対しては等しい幸福をもたらすものではないのである。故に介護度を高く求めることにより、余裕さえあれば要介護者を介護施設に預けることは可能だ。しかし、「自分でできるだけしてあげよう」と思う孝行者ほど、悪循環にはまっていく可能性がある……と書いた。また“同時多発介護の時代”では評論家の樋口恵子さんのこんな言葉にはまってしまった。……2013年の高齢社会白書に『要介護になったとき誰に介護を頼みたいか』と団塊世代に尋ねた調査で、『子の配偶者』という回答(嫁介護)は男女とも1%以下だった。「少なくて目をこすりましたよ」……。
妬みの温床は介護を背景に育まれる。介護格差とも言えるだろうか。介護の有無によって人の暮らしはずいぶんと変わる。それは要介護者が家族にいるかいないかなどという事実だけでは判断できない。いよいよ妻は要介護度5の父とそこまでいつたどり着いてもおかしくない母の世話をするようになった。妻にとっては癒しの家であった我が家に、週に1度か2度程度しか帰らなくなった。今までもそうであったが、帰ってきても居間のこたつに横たわって新聞屋が訪れても気がつかないほど寝入っている。わたしが起さない限り目覚めは朝まで来ないのではないかというほどに…。娘である以上そこから逃げるわけにもゆかない。これほど介護全盛の時代だから、そこにビジネスを狙う人々がいて当然だ。圧倒的に思うのは、モノに対する介護の高度化である。要介護者のためのさまざまなモノは、ひと昔前に比べたら進化は著しいのだろう。そのいっぽうで人を利用するビジネスはいまひとつなのだろう。手に余ることもあって母は週に複数回デイサービスに通い、さらにショートにも向かう。ショートに向かう母に綺麗にたたんだパジャマを持たせても、そのまま帰ってくるのがいつもだという。そんな施設ではおむつですら交換せずにそのまま帰ってくるのも珍しくないという。介護の世界の現実がどれほど厳しいものか、かかわっていないわたしには解るはずもないが、生活を脅かされたくない人々は、要介護者が家族にいてもほぼ他人任せにすることも可能だという。
妻はこのごろ「今年のコメ作りどうしよう」と度々口にする。究極の段階に来ていると察するが、あとはわたし次第なのだと思う。ちまたで耕作放棄地が増えるのも無理はない。
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