高遠町藤沢荒町の山の神講には、写真のような「山之神講連名帳」というものが毎年綴られて残されている。中には会計報告(前年度繰越金、収入、支出、次年度繰越金)、出席者、欠席者、次回当宿、申し送りが書かれ、最後に「当宿」が記されている。「当宿」とはオトウヤのことである。出席者は参加された全員が書かれており、ここでは軒数ではない。昔は1戸ひとりの参加だったことから出席者=講員数だったのだろうが、現在は参加者全員なのである。自治組織も家ではなく個人になりつつあり、現代風の対応と捉えられる。令和6年には11名が参加されており、欠席者は3名記されている。
そもそも講員数を聞くと軒数で答えられており、令和6年時は7軒だったという。今年から移住された方が1軒加わり、8軒となる。この連名帳といわれるものは、明治45年(1912)から残されていたようで、それらを講員の秋山さんがまとめられていて、オトウヤに渡される記録簿に綴られている。連名帳の当時の実物が無いかと確認したが、現在オトウヤに回されている箱にはそれらしいものが入っておらず近年のものだけ回されている。処分されたのかどこかに保存されているのかは不明である。ただしまとめられているため、その経過がよくわかる。最も古い明治45年の欄には実施日1月17日とあり、会費として「20,32銭」と記されている。20銭だったのか、32銭だったのかはよくわからない。ちなみに翌大正2年の会費は21銭だった。大正3年の「申し送り事項他」欄に「明日よりも今日を楽しむ山の神」とある。この時代には特別な記載がないなかであえてこう記されていることを察すると、この祭日には酒盛りをして「楽しむ」という意識が強かったと思われる。このことはほかの山の神講の事例からもうかがえる。例えば辰野町川島では、やはりオトウヤでかつて山の神講が行われ、「酒を飲み御馳走を食べ大騒ぎして晩方帰」ったという(『長野県上伊那史民俗篇』971頁)。
昭和11年には新規加入者が3名記されている。それから9年後にその加入者が3年続けてオトウヤを担っている。現在オトウヤは、事前に抽選で決められている。抽選で決められたオトウヤが終わる3年ほど前にあらためて次のオトウヤを抽選しており、新規加入者は抽選で決められたオトウヤの最後に配分されると言う。当時も現在のようなオトウヤ決定方法だったかは不明だが、3年連続しているところから同じ方法をとっていたと思われる。抽選のことが連名帳に記されるようになるのは昭和21年のこと。そこには「23年よりの抽選」と記されている。ようは昭和23年(2年後)以降のオトウヤを決めたのは昭和21年だったわけである。次に抽選のことが記されるのは昭和35年のことで、「37年よりの抽選」と記されている。ここからオトウヤ役は14軒ということになる。昭和11年に加入された方がオトウヤを終える2年前に抽選したことからも、前述したように新規加入者がオトウヤの最後に名を連ねていたことが解る。
このころから休会、あるいは休講という文字が見える。昭和23年に3名、同26年に1名記されている。3名中3名が女性のことから、もともと山の神講は男性のみの講だったことから、主人が亡くなられて講に参加できなくなったことによるものと思われる。
昭和49年にオトウヤを抽選しているが、この年から祭日を「成人の日」に変更している。ただし成人の日がハッピーマンデー制度で第2月曜日に変更されたのは平成11年であることから、記録を見る限り、必ず成人の日ではなかったようで、昭和51年は18日、以後も15日ではない日に実施されている年が多い。現在のように1月17日に近い日曜日、あるいは「成人の日」にしたと思われる。平成11年に近い年は、ほぼ1月15日に実施されていて、平成12年以降は現在のように第2日曜日に設定したようである。
かつてはオトウヤで講は行われていたが、その際にはオトウヤで風呂を焚いて身体を清めてもらったという。この風呂焚きがけっこう大変だったと、経験者は語られる。昭和50年の欄には、その清めの風呂を注視すると記されている。翌昭和51年にはオトウヤではなく公民館で行い、「17日前後の日曜日」と実施日の目安が記されている。さらに昭和61年には「男子不都合の時女子で良い」とあり、この年から女性の参加が認められた。さらに2年後の昭和63年には「次年度より夫婦同伴で出席する」となっており、記録では翌年から1戸当たりの会費が上がっている。記録の冒頭にもあったように、「今日を楽しむ」を実践するために昭和から平成になったころ、それまでの風習を変えた様子がうかがえる。
平成13年と14年には「山の講の合併」話が上がっていたようで、担当を決めている。その後この件について記載はなく、結果的に合併はなかったと思われる。
現在弓の弦はバインダーの紐を利用している。それまでは藁で綯ったというが、平成28年に「麻縄寄贈」と記されており、このころこの紐を利用するようになったと思われる。令和3年はコロナ禍のため「休会」となり、オトウヤは次年度に持ち越された。令和6年、昨年新たにオトウヤの抽選がされており、抽選に加わったのは6軒だった。令和7年までオトウヤが決まっていたため、今年加入された方は、令和8年にオトウヤを努めると言う。
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