山の神の石祠
貴船神社
現在行われている山の神講と、過去の変遷について、高遠町藤沢荒町の事例について触れてきた。掛軸には「大山祇命」と書かれているが、地元では「おおやまつみのかみ」と読んでいる。貴船神社の裏山にある山の神であるが、裏山といっても神社から20メートルほどの高低差。山の神へお詣りし、神酒と洗米を供えると弓で矢を射、貴船神社へ下るとお宮にお参りし再び矢を射る。貴船神社は水神さんと言われており、山の神とのかかわりははっきりしない。山の神の石祠はふたつある。ふたつとも山の神かどうかもはっきりしないが、両者尾根の突端に祀られていて、おそらくふたつとも山の神なのだろう。大き目の主神と思われる石祠には銘文がある。向かって右側面に「延宝六年」、左側面に「戌午二月吉日」とある。延宝6年は1678年に当る。350年ほど前のもの。山の神の祠でこの年代のものがほかにあるのかどうか、あまり山の神の祠を調べたことはなく判然としないが、かなり古いもののひとつと言える。ちなみに貴船神社は永禄から天正のころに勧請されたものと言われており、この山の神の祠より100年ほど早い。高遠城主だった保科正之が山形へ転封されたのが寛永13年というから1636年であり、その40年ほど後にこの祠は祀られている。転封された際に山車や神輿、子供騎馬行列の祭具一式が貴船神社へ寄進されたと言われ、それらが現在も残されている。
では山の神講の始まりはいつかということになるが、掛軸を納めている木箱の裏に墨書きが残っており、「文化十三丙子年」(1816)とある。少なくともその時代には山の神講は行われていたと推測される。かつて荒町には4つの山の神講があったといわれ、平成20年の伊那谷ネットニュースには「現在2つ」の講があると報道されている。そのもうひとつの講も現在はなくなっており、残っている講はこの講のみ。前回「山之神講連名帳」について触れたが、その中で平成13年ころ講の合併の話があったことについて触れた。いずれの講も同姓が中心になって組まれていたようで、とりわけ現在残っている講は、いろいろな姓で構成されている。もともとは秋山姓の人たちによって構成されていたと思われるが、しだいに同姓外の家々を講員にして継続されてきたとも想像され、時代に応じて変容を受け入れてきた講ともいえる。故に現在も継続されてきたのだろう。
講員の方たちと話題になったのは、なぜ米を5合持ち寄るのか、ということであった。使うのは現在2合。しばらく2合のよう。であるならば持ち寄るのも2合で良いと思うのだが、あえて5合持ち寄って、3合は持ち帰る。その持ち帰った米は特別な利用法があるのか聞くと、ふつうに炊いてしまうしまうという。そこには意図が見えないわけだが、この「5合」の話を他の事例に拾うことができた。前回も引用した辰野町川島の講では、「お頭屋では米五合宛集めて回る」という。荒町の5合と同じである。川島の事例では5合集めた米のことについてほかに記述はない。そもそも現在川島で山の神講を実施しているという話を聞かないが、調べてみる必要はある。同じ『長野県上伊那誌民俗篇』には長谷村非持の事例も紹介されていて「以前は米を持ちよって御飯をたき、御飯を大盛りにして食べ、食べきれないで泣きだした人もいたという」。ようは山の神講では腹いっぱい食べることが伝わっていて、故に5合という米を持ち寄る話が聞かれるのかもしれない。荒町ではその5合を今も伝えているが、さすがに食べきれないため、利用しているのは2合ということなのだろう。
さて、こうした矢を射る山の神講、現状はどうなのかということになるが、ウェブ上で検索すると、諏訪地域で実施例が目立つ。例えば下諏訪町第三区では1月17日の朝早くに山の神へ集まり、神職による神事の後に「山の神様、三仙護王」と唱えて竹の矢を射るという。また諏訪市北澤、南澤両区では同日に双葉ケ丘の山之神社において神事後に矢を放っているという。いずれの例も地域をあげて行っているもので、神事を伴っており、荒町のような素朴なものとは趣が異なる。とはいえ、諏訪に隣接する藤沢であることから、ここの山の神講は諏訪方面から伝わったものといえ、県内では藤沢谷を境にそれより南にはこうした矢を射る講は認められない。
なお、荒町にあった4つの講は、いずれも貴船神社裏山の山の神の祠が祭祀対象だったという。
続く
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