Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

水路を覆いつくす草のこと

2017-09-07 23:04:53 | 農村環境
 先ごろ“もうひとつの「見事な〝畔〟」”で触れたが、伊那市以北の水田地帯では草だらけの畔が多いことを記した。草刈の頻度がまったく異なるのだが、とりわけ草刈が行われていない水田に、営農組織が耕作しているという表示がされていた。そこに植えられている稲にはこの時期にしてはも全く穂がなく、青々しているのでいったい何だんだと思っていたら、いわゆる飼料米だという。すでに周辺が黄色くなって収穫間際だというのに、青々しているような稲は飼料米のようだ。肉牛に飼料米を食べさせるという話は、ここ数年仕事で縁のある肉牛農家の方から何度か聞いていた。わたしの生活エリアでは見ることがないが、肉牛農家があるような地域にはけっこう飼料米の姿が見えるようだ。
 
 こうした資料米が植えられている水田の畔がとりわけ雑草が多かったからではないが、飼料米はいわゆる食用の米のような病気にかかるのかどうなのか。そんなことを考えていたら、ふつうの米に比べたら雑草管理は重要視していないのかもしれない。とはいえ、ふつうの稲を植えた水田も混在しているから、そうした飼料米を作っている水田の周辺でふつうの米を作っている人たちには、ちょっと迷惑なのかもしれない、そんなことを感じた。
 
 昨日も触れた暗渠の出口から下流には水田地帯が広がり、黄色く穂が垂れていたわけだが、そうした中にも青々した水田が少し見られた。ここでも飼料米を作っている人たちがいるよう。そんな水田地帯を潤すための幹線水路なのだが、水路がすっかり消滅している。というのは草に覆われて水路がすっかり隠れてしまっているのだ。小さな水路ではない。幅にして1メートルほどある水路だから、少しくらい草が伸びてもそれが見えなくなってしまうことはない。にもかかわらず消えているのだから、いかに丈の長い草が垂れるように生えているか解るだろう。理事長さんに「こういう水路の草は誰が刈ることになっているんですか」と聞いたところ、周囲の水田耕作者が刈るのが今までの慣例だという。いまや慣例は伝わらなくなっている、と感じた光景である。
 
 ひとつの仕事がようやくひと段落して、今は盛んに現場に出ている。とりわけこの時期になるとそれまで盛んに管理されていた雑草が、一息ついたようにそのままにされて草丈が伸びている。5年ほど前に伊那にいた時も同じような空間を歩いたが、その時に比較すると明らかに草の管理はされなくなっていると感じる。何といってもわたしの仕事は草があると無いとでは作業効率に大きく影響する。水路が隠れてしまうど草が生えていると、水路機能の実態がすぐに把握できない。「どこで水を掛けているのだろう」、あるいは「どこで排水しているのだろう」といったことが、草をどかしてみないとわからないのだ。「前は1日にこれくらいはできたから」、という計算が成り立たないのだ。

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