このところ記しているように歳を重ねるということは経験が蓄積されるから、経験の少ない人にいろいろ言われても納得できないのも当然だ。したがって初心に返ると口にしても、本当にそこまで返ることはできない。あくまでも言葉上のもの。若い人の言葉に耳を傾けるということは、経験値のある者には難しいのかもしれない。
そういう意味では「聞き取り」の蓄積をしてきた経験は、無駄ではない。しかし、ある民俗調査を行う際の会議での話、話者選定において「高齢者を」と望む時、わたしはけして高齢者に限らなくても良いのでは、と提言したものの、経験を重ねている人たちにはなかなか理解いただけない提言でもあった。しかし、現実的に世の中は高齢者に聞けば全て網羅できるというものでもない。とりわけ「今を知る」には、むしろ若い人に聞かなくてはならない分野や、場面も多い。多様性の時代だけに一層そう思う。
先ごろある調査で話をうかがった。たまたまわたしの席に座られた方に、そのまま話を聞くことになったが、座られた際に「若い」と思ったのは、まさに前述したように経験値から来る違和感でもあった。その場に集まられた話者の中で、特に若い方だった。20代後半のその方、事前にその方が記された調査票は、さすがにほとんど空白だった。ところがある一部だけはよく書き込まれていた。それは祭りで曳行される舞台のことだった。彼の家が氏子の地域では春の例祭に舞台が曳行される。それを実行するのは祭りを担う青年の集団。16歳になると声掛けされ、年長は27歳になるという。ちょうど昨年までその集団に入っていたといい、したがって現在の祭りにおける舞台曳行については、最も詳しかったというわけである。もちろんこの2年はコロナ禍ということもあって実施されなかったが、そのあたりも含め現在の様子をうかがうことができたわけである。こうした祭りにおける「現在」は、実際に携わっている当人たちでなければわからないこと。昔のことは分かっても、現在のことはそこに関わっている現役でなければ分からない、ということも当たり前なのである。もちろん冒頭の意識は、「昔のことを聞きたい」という前提があるからだろうが、その昔も、話者の関わった限定された時代に限られるわけで、それをもって過去の全てとは言えないわけである。
神社とのかかわりと、そこへの思い、そしてちょうど神社の入口に面してある共同墓地にある彼の家のお墓の話など、彼の捉える信仰世界が聞き取れたわけで、「若い」と思った違和感とは別に、とても良い話を聞くことができたわけである。けして初心に返らずとも、それぞれの経験を聞くという意識さえあれば、年齢は無関係であると、あらためて知った例でもあった。
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