伊那谷の西側の山裾に近いところに居を構えるようになって、山側にできた広域農道を利用するようにり、国道をあまり通らなくなった。先日、この農道が片側通行になっていて、珍しく国道を利用した。
伊那谷中部あたりの国道を通ると、地形に沿って国道がU字状に迂回する場所が何箇所かある。伊那谷は南北に天竜川に沿って展開しているから、一般的に南北方向に国道が走る。しかし、国道を伊那市から南下し、天竜川支流の中田切川に至ると、それまでの南北方向とは異なり、東西方向に約300m程度迂回することとなる。そして、その南にある支流与田切川にいたると、東西に1kmほど走る。かつてはこの支流の谷が深いとともに、荒れる川であったため、橋が少なかった。そんなこともあり、国道が唯一の南北を結ぶ道であったわけで、このあたりに住む人、あるいは通過する人たちは、避けて通ることのできない、「遠回り」であった。この川を迂回せずに跳び越している道がある。中央自動車道である。谷の上をいっきに橋でまたいでいる。同様の道が一般道でほしいといって、10年以上も前になるが、中田切川に広域農道の橋が架かった。公共事業が悪者のように捉えられて、テレビ報道もされた橋であるが、地域にとってはほしかった橋である。
この迂回は国道に限ったものではない。JR飯田線も同じようにU字状に迂回していて、伊那谷中部を通過するにはけっこう時間を要す。中田切川の迂回を南に過ぎたところに「田切」という駅がある。無人の駅であるが、10年以上前には、マニアに大変人気の駅であった。「究極超人あーる」というアニメの題材にもなった駅で、無人の駅舎に「Rノート」なるものが置かれていたことを、当時この駅から1km程度のところに住んでいたこともあって覚えている。普段は車通勤であったが、時折使うJRの最寄の駅であった。実はこの駅、20年近く前になるだろうか、駅舎の位置が南側に100mほど移動して新築された。もとの駅はU字状に迂回した線路が、再び南北に向き始めるカーブ上にあった。このため、停車すると列車の先頭と後尾はまったく見えなくなる。線路の片側は山になっていて、もう一方は谷になっている。山側にカーブがかかっているため、車掌は、ホームを移動して確認しないと、ホームの人影が確認できないのである。電車に乗っていると、つり革がずいぶんと傾いている。これほど傾くほどなのだから、ホームと電車の間に空間ができる。年寄りや子どもにとっては、その空間がずいぶんと開いて見える。わたしもこの駅から近いところに親戚があって、子どものころこの駅を利用したことが何度かあったが、乗るときはもちろん、降りる時も怖かったものである。そんなイメージから「究極超人あーる」が生まれたのだろう。
この迂回するということが、常の生活に大きく影響しているわけであるが、このあたりにはこの「田切」という地名がいくつもある。川の名前なら、中田切と与田切以外にも、大田切川、犬田切川、古田切川などがあり、その流域には、川の名前の地名が残っている。一般に水などがたぎり落ちるというようなところに語源があるといわれ、東京の目黒にも同じような語源といわれる「田切」があるという。30年ほど前にもそんな田切に興味を引かれ、新潟県の妙高高原町の「田切」を調べたこともあった。地図を見ると、そこにも川をU字状に迂回している国道18号の姿があった。自ら田切地形の谷底に生を受けて、そこで育った。常に北を望むと約80mくらいあるのだろうか、河岸段丘の崖が露わになった姿を見せていた。この谷の中を東西に風が吹き抜けることが多かった。そんな印象が強かったためだろうか、当時「歴史読本」(現在も発行されている月刊誌)に読者招待席という4ページくらいを占有できる投稿ページがあって、そこへ「田切」地名考と題して投稿したことがあった。その中で、南からやってきたバイパスは、与田切川まではトンネルや橋で南北に最短距離をとったが、ここで新路線は崖にぶち当たって、迂回するしかなかった。さらに北へ国道バイパスが計画されているが、この地形に悩まされるだろう、と記述している。この新路線ができて30年、北側のバイパスは今だできていないが、新バイパス計画が確実に少しずつではあるが進んでいる。いよいよこの崖を跳び越すことになるようである。飛び越してしまえば、通過する人たちにはこの地形に遮られてきたことを忘れていくのだろう。
伊那谷中部あたりの国道を通ると、地形に沿って国道がU字状に迂回する場所が何箇所かある。伊那谷は南北に天竜川に沿って展開しているから、一般的に南北方向に国道が走る。しかし、国道を伊那市から南下し、天竜川支流の中田切川に至ると、それまでの南北方向とは異なり、東西方向に約300m程度迂回することとなる。そして、その南にある支流与田切川にいたると、東西に1kmほど走る。かつてはこの支流の谷が深いとともに、荒れる川であったため、橋が少なかった。そんなこともあり、国道が唯一の南北を結ぶ道であったわけで、このあたりに住む人、あるいは通過する人たちは、避けて通ることのできない、「遠回り」であった。この川を迂回せずに跳び越している道がある。中央自動車道である。谷の上をいっきに橋でまたいでいる。同様の道が一般道でほしいといって、10年以上も前になるが、中田切川に広域農道の橋が架かった。公共事業が悪者のように捉えられて、テレビ報道もされた橋であるが、地域にとってはほしかった橋である。
この迂回は国道に限ったものではない。JR飯田線も同じようにU字状に迂回していて、伊那谷中部を通過するにはけっこう時間を要す。中田切川の迂回を南に過ぎたところに「田切」という駅がある。無人の駅であるが、10年以上前には、マニアに大変人気の駅であった。「究極超人あーる」というアニメの題材にもなった駅で、無人の駅舎に「Rノート」なるものが置かれていたことを、当時この駅から1km程度のところに住んでいたこともあって覚えている。普段は車通勤であったが、時折使うJRの最寄の駅であった。実はこの駅、20年近く前になるだろうか、駅舎の位置が南側に100mほど移動して新築された。もとの駅はU字状に迂回した線路が、再び南北に向き始めるカーブ上にあった。このため、停車すると列車の先頭と後尾はまったく見えなくなる。線路の片側は山になっていて、もう一方は谷になっている。山側にカーブがかかっているため、車掌は、ホームを移動して確認しないと、ホームの人影が確認できないのである。電車に乗っていると、つり革がずいぶんと傾いている。これほど傾くほどなのだから、ホームと電車の間に空間ができる。年寄りや子どもにとっては、その空間がずいぶんと開いて見える。わたしもこの駅から近いところに親戚があって、子どものころこの駅を利用したことが何度かあったが、乗るときはもちろん、降りる時も怖かったものである。そんなイメージから「究極超人あーる」が生まれたのだろう。
この迂回するということが、常の生活に大きく影響しているわけであるが、このあたりにはこの「田切」という地名がいくつもある。川の名前なら、中田切と与田切以外にも、大田切川、犬田切川、古田切川などがあり、その流域には、川の名前の地名が残っている。一般に水などがたぎり落ちるというようなところに語源があるといわれ、東京の目黒にも同じような語源といわれる「田切」があるという。30年ほど前にもそんな田切に興味を引かれ、新潟県の妙高高原町の「田切」を調べたこともあった。地図を見ると、そこにも川をU字状に迂回している国道18号の姿があった。自ら田切地形の谷底に生を受けて、そこで育った。常に北を望むと約80mくらいあるのだろうか、河岸段丘の崖が露わになった姿を見せていた。この谷の中を東西に風が吹き抜けることが多かった。そんな印象が強かったためだろうか、当時「歴史読本」(現在も発行されている月刊誌)に読者招待席という4ページくらいを占有できる投稿ページがあって、そこへ「田切」地名考と題して投稿したことがあった。その中で、南からやってきたバイパスは、与田切川まではトンネルや橋で南北に最短距離をとったが、ここで新路線は崖にぶち当たって、迂回するしかなかった。さらに北へ国道バイパスが計画されているが、この地形に悩まされるだろう、と記述している。この新路線ができて30年、北側のバイパスは今だできていないが、新バイパス計画が確実に少しずつではあるが進んでいる。いよいよこの崖を跳び越すことになるようである。飛び越してしまえば、通過する人たちにはこの地形に遮られてきたことを忘れていくのだろう。
駅より徒歩で与田切川へ向かい河川流域の昆虫調査をしました。当時の流域は自然が豊富で数多くの昆虫が生息し、飽きることなく川沿いを歩き回った記憶があります。
あれから月日がたち中央高速道を通る度に伊那谷を眺めてみると、河岸段丘上は農地ばかり、森林は植林の人工林ばかりで、辛うじて河川沿いと山の上部の傾斜地に自然林が残っているという状態。やはり人間の生活と自然の共生は、成り立たないと強く感じます。そういう意味においては、河川沿いの不便な環境というのは大切なものかもしれませんね。
PS.飯島駅前の陣屋旅館って、まだあるかなぁ!懐かしい!
信州あちこち行きましたけど、ずぅーっと良い環境を昔のまま残しているのは河川沿いだけですね。農地は耕地整理で最悪ですよ。昔ながらの棚田なんか、もうどこにもありませんもの。信州のカラマツの植林は最悪です。そうそう、赤松の林がありましたね。
コナラやクルミなど広葉樹が多く、国蝶のオオムラサキなんかは沢山いましたよ。
あれから行ったことないんです。
また機会があったら行きたいなぁー。。。
ここで少し触れておかないといけないことがあります。
>信州あちこち行きましたけど、ずぅーっと良い環境を昔のまま残しているのは河川沿いだけですね。農地は耕地整理で最悪ですよ。昔ながらの棚田なんか、もうどこにもありませんもの。信州のカラマツの植林は最悪です。そうそう、赤松の林がありましたね。
とありますが、耕地整理の話です。与田切川のある飯島町は、昭和40年代後半から50年代にかけて、ほぼ全域を対象にしてほ場整備を行いました。隣の駒ヶ根市や宮田村なども同様です。確かに自然との共生という意味では大変大きな自然への負荷であったのでしょう。わたしも昔のことを懐かしむことは多々あります。しかし時代は米余りの時代に向かい、転作が奨励されるようになると、農政の目指すものは、いわゆる水生昆虫などにはすみにくい、乾田化だったわけです。それは、結局農業離れを起こしていきますが、果たして単純に悪者にはできないわけです。その背景はややこしいことがたくさんあるし、誰も責められない部分があります。しいて言えば、農政の専門化が、将来を見誤ったというくらいでしょうか。そんな飯島町は、全域を同時期に整備したおかげて、たいへん整然とした耕地が現在に残りました。土地の秩序化といえばそうかもしれませんが、こうした全域整備に踏み込まなかった地域では、農地内に虫食い状態で宅地ができたりして、現在に至ってはどうにもならなくなているところも多々あります。長野市の近郊あたりでも、都市化が進むにつれて、農地はどんどんなくなっていきました。しかし、整備されていないがために、道は狭く、虫食いの中に農地が残ったりと、なかなか両者が共生していくには難しいばかりのようです。
全域を整備したということもあって、整備後の他への転用に制約があって、現在になっても、整備直後とそれほど変わらない土地利用の姿が見えます。ただし、これから先がどうなるかはまた別の話でしょうし、整備を機会にさまざまな変化が起きたことも確かで、山間地と都市近郊という環境から置き去りにされたように、こうした中間地帯は、大変厳しい農業を迫られています。
赤松の話がありましたが、南信では、松枯れが著しいですね。いわゆるマツクイムシというやつ。昔にはなかった姿です。カラマツの話ですが、カラマツというのは、長野県ではもっとも多いといわれる樹木です。確かに戦後に育ちがよいといってけっこう植えられましたが、実はカラマツの利用価値というのは多く、それもけっこう古い時代から利用されていたといいます。いずれにしても、山地で生きていくために、さまざまな工夫を繰り返したのでしょうが、その結果をなかなか簡単には語れないのが現実ですね。
そうえば、駅の近くにあった陣屋旅館ですが、役場の入り口にあったのですが、今は、駅から少し北の方にいったところにある、町のショッピングセンターの近くに移転して、今でもやっています。駅の周辺がずいぶん変わりました。
さて、補足をいただいたので少しばかりお返ししておきます。確かにtrx_45さんの言うとおり耕地整理は地元の住民の方々の将来のために行われた素晴らしい事業だったと思います。その土地に住んでいるという現実の上で考えられる最良の施策だったのかもしれません。それはそれで否定などする余地などありません。ただ、その行為によって少なからず失われていった部分もあったということを言いたかっただけです。あくまでも「太古の自然」という立場から現状を拝見するとそんな風に見えてしまうのも現実なのかもしれません。例としてオオルリシジミという蝶がいます。昔は伊那地方にも分布していましたが、たぶん耕地整理をした頃より消えました。長野県では他でも同じような状態で失われていった生物のひとつです。また、以前お書きしたマツムシソウなどのある自然草原は、私が高校生の頃に行った霧が峰周辺や八ヶ岳周辺には、どこにもあふれるほど咲いていた記憶がありますが、その場所に行っても、今ではカラマツの純林になって見る影もありません。人為的植栽されたカラマツの成長によってとんでもない面積の自然草原が失われてしまっているのです。これも現実です。これらのことは(まだまだ沢山ありますが)現在においては誰も気付かない本当の真実なんです。まあ、人間の生活が優先ですから一般の人には、どうでもいい話ですけどね。
与田切川の松林、なかなか樹齢のあるあのような林は、そう簡単に見られるものではなかったでしょう。不便で開発しにくかったからこそ残っていた宝物だったのかもしれません。高度成長時代にマツノマダラカミキリの媒介によってマツクイムシが大繁殖して、東海地方の松林は壊滅状態になりました。あとで判ったのは、酸性雨によって木自身が弱ったのが原因だったとのこと。人間たちは、マツノマダラカミキリを殺すために、どれだけの農薬を撒いたのか、それによってどれだけ多くの生物を殺してきたのか。今となっては誰も知らない最低な行為だったということは間違いないでしょう。そして「自然を大切にしましょう」と勝手なことを言っている現実。こんなものです。
要するに、人間の行為に確かな正義も悪も判断する余地は無いということ。ただ、過去を懐かしむ気持ちが私のコメントだったのかもしれません。失礼しました。