自分の長きにわたる社会生活(あえて人生とは言わない)において、どう先輩たちに教えられ、どう感じてきたか、もちろん自分だけのものであって、他人が同じように日常を捉えてきたわけではないことは百も承知だが、人とそとの関係が以前とはずいぶん違ってきていることは、自らの立ち位置において知ることも多い。
来年度に向けた準備の足音が聞こえるようになって、人事ヒアリングも行われている。人を評価するのは得意ではなく、それこそ点数化するのは好きではない。それぞれに個性があって、それぞれの育ち方があると考えてきたが、近ごろ年老いて部署のトップにいる人たちの言葉を聞いていて驚くようなことも耳にする。確かに忙しい会社であることは昔と変わらないかもしれないが、正直なところ、一時に比べれば業務過多という印象はない(平均的に)。ところが「暇」とは言わないまでも余裕があればあったで、忙しい時に「余裕があればできる」と思っていたようなことが実践できるわけではない。人は伸び縮みするように柔軟に自らを置いてしまう。わたしもそうだが、忙しくても、余裕でも、出来上がる量にそれほど違いは無いのである。こうした伸縮性を見せず仕事のできる人は「たいしたものだ」と思う。むしろ伸縮性のない人は、仕事がそれほどできない人に多い。
ある部署のトップは、昨年と違ってずいぶん不服が多いようで、こちらから少し意見を述べると不平不満を連発する。そして若い職員に対し「著しく劣った原因を検証」しなくてはならないと評価した。わが社ではこの場合、「資質向上を図るために必要と認める場合には、個別面談のうえ、適切な指導を行うよう、評価者に対して指示する」とされている。もちろん人事評価委員会においてそう指示された場合だが…。具体的には若い職員だから、その部署のトップ、いわゆる評価者が「職務を認識させ、資質向上のため、著しく評価が劣った評価項目について、個別に指導する」ことになる。そもそも評価した本人が、被評価者に信頼ある存在なら良いが、不平不満を連発する評価者に、その能力はないとわたしは見た。ということはわが社の人事評価システムには課題があるということになるだろうか。彼に言わせると「しゃべらない」と言う。しかし、若者が自ら書いた調査書には、「年齢が離れていて話しづらい」と記されている。ちゃんと理由が記されている以上、他人に「しゃべらない」を連発するのは、自らの能力不足を露呈しているものと同じ。もはや彼に部署のトップとしての資質も怪しいと捉えるしかない。
人は外面と内面は異なるもの、とあらためて言うまでもないが、接している関係者の評価と、社内における評価が大きく異なる例は珍しいことではない。しかし、実際は社内の内情など、お客さんたちには無関係なこと。したがって該当者が錯覚してしまうことも致し方ない。
確かに昔と違い、若者を育てることは難しい。耐える時代ではないことは百も承知だ。その上でいかに長い目で育てていくか、もちろん辞められてしまうと元も子もない。地域社会もそうだが、明らかに人と接するのに不慣れな人が多くなった。けして若い人ばかりではない。わたしは元々人と接するのは不得意だったが、ライフワークがそれを解消させてくれて、今がある。さまざまに「感謝」である。
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