綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

杉本傅氏とパリ五輪

2024年07月27日 | 日記

本日、令和6年(2024)7月27日午前2時30分(日本時間)から、開会式が行われる、第33回オリンピック競技大会「パリ五輪」。32競技、329種目が実施される予定です。

このオリンピックですが、ちょうど百年前の大正13年(1924)もパリでの開催でした。

当時日本は関東大震災の直後でしたが、災害に負けぬ日本を世界に示す為、万難を排し、19名の選手団が派遣され、そのうちの約3割にあたる6名が水泳選手であり、その水泳選手団を監督として率いたのが、当宮の歴代の氏子であった 杉本傅(すぎもと つたえ)氏でした。

杉本家は、現在の堂山町にある東急REIホテルあたりに代々のお家があられ、江戸中期の古い地図等にも杉本家の名前が出てくるなど、梅田に根ざし、当宮とも関係の深いお家柄でした。

杉本傳氏はその杉本家で生まれ、日体大卒業後、母校である府立茨木高校の教員となり、まだ世界でも萌芽期であった近代水泳に着目。その指導の為、大正5年(1916)に大正天皇の御即位を記念して、校庭に南北30メートル・東西18メートルの水泳池を生徒らと協力して建造。これが日本最初の水泳授業の為のプールといわれています。

大正9年(1920)に開かれた全国競泳大会に、指導する茨木高校水泳部が出場し、高校生ながら全国優勝。その後も様々な大会で圧倒し、水泳指導者として杉本氏の名声は高まり、大正13年のパリ五輪では水泳の代表監督に就任しました。ちなみにこの時の開会式では、日本のマラソン界の父といわれる金栗四三氏が旗手を務めており、水泳のみならず陸上も黎明期でした。

パリ五輪においては、杉本傅氏の愛弟子である、高石勝男氏等が入賞するなど、黎明期と思えぬ活躍を見せ、後に海洋国家日本のお家芸ともいわれる日本水泳が世界に泳ぎ出した大会でもありました。

実はいま私たちが学校で普通に習っているクロールを、日本に定着させたのはこの杉本氏の功績が大きく、他にも水泳飛び込みや、背泳、水球の普及にも大きく貢献されました。

また杉本氏が直接関わられていたのかどうかは不明ですが、杉本氏の生家から東にいった大阪梅田の東端、扇町公園には、かつて大阪プール(現在は港区に移転)がありましたが、ここに設置された競泳飛び込み台には、今では一般的になっている背泳の為の持ち手がついています。伝承によれば、これが世界最初の背泳の持ち手とも言われており、水の都である大阪。その中でも杉本氏の生誕地である梅田を日本水泳の発信地にしようという思いがあられたのではという気もしてまいります。

そうした日本における近代水泳の基礎を固められたので、杉本氏は「日本近代水泳の父」ともいえる方でした。

しかし、とてもシャイな性格であられたそうで、顕彰などでお名前が出る事をあまり好まれず、現代に至るまでその顕彰は殆ど成されていません。

数少ないお名前が残っている場所というのが、母校茨木高校の顕彰碑と、当宮御本社の玉垣のお名前ぐらいとなっています。
今後日本の水泳史の研究が進めば、必ずお名前が高まる方である事は間違いありません。これからの調査研究に期待したいところです。

そんな杉本傅氏が指導に関わった水泳競技。

今回の第33回オリンピック競技大会 パリ大会では、
団長の金子日出澄氏、総監督の村松さやか氏をはじめ、
梅原孝之監督が率いる競泳選手27名、
安田千万樹ヘッドコーチが率いる水泳飛び込み5名、
塩田義法ヘッドコーチが率いる水球選手13名
中島貴子 ヘッドコーチが率いるAS選手9名
吉田龍平コーチが率いるOWS選手2名

また8月28日からの
第17回パラリンピック パリ大会では
上垣匠監督が率いる競泳選手22名

の方々が精魂込めて競技に臨まれます。
選手の皆様には悔いのない全力競技をと祈念する思いです。

そして、今日のトビウオジャパンの原点になった、杉本傅氏の功績も忘れずにいたいものです。



   


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