今日4月20日は当宮の御祭神、菅原道眞公の無実の罪が晴れた日です。
そしてその日から今日で丸々1100年となりました。
道眞公は、まだお若い醍醐天皇を支えて右大臣として国政を担っておられましたが、信任が厚い事を気に入らない藤原時平らによって、昌泰四年(延喜元年:901)正月廿五日に無実の罪を着せられ、左遷職である大宰員外帥に降格。京都から遠く九州太宰府へと流され、延喜三年(903)2月25日。その地で薨去されてしまわれたといわれています。
その直後から、京都をはじめ全国で天変地異が相次ぎ、とどめが、皇太子であった保明親王が23歳の若さで薨御(皇太子が亡くなる事)になられ、『日本紀略』には「天下庶人 悲泣せざるは無し。その声、雷のごとし。世を挙げて言う、菅帥の霊魂宿忿のなすところなりと」と、数々の天災や悲劇は、無実の罪で流され、無念の内に亡くなられた道眞公の祟として恐れました。
こうした人々の声が大きかった事もあってか、延喜二十三年(延長元年:923)4月20日に、道眞公を左遷した時の詔書などを焼き捨て、元の右大臣に復し、更に正二位を追贈しました。
つまり今日は、国家が道眞公の御神霊の存在を認めた日ともいえます。
そして、今日に至ってはその日から1100年の慶節となり、当宮では朝一番に言祝ぎの神事を執り行い、その後、天神さまの総本社の京都・北野天満宮にお参りにまいりました。北野天満宮では「明祭(あけのまつり)」という神事が行われ、無実の罪が晴れた日をお喜び申し上げておられます。
なお、道眞公は、天災をもたらす「祟り神」として崇められた事に始まるといわれますが、これは庶民が道眞公が無実であると信じて疑わなかった事の裏返しなのではないでしょうか。また讃岐守(現在の香川県知事)時代の仁政など、庶民に寄り添っておられた姿は、貴族同士の派閥争いに終始したあの時代に、庶民にどれほどの清涼感を与えたか、想像に難くないです。 またこの日本国の国語、歴史、詩文、外交、そして雪月花をこよなく愛される姿など、それまで東アジアの端っこでぼんやりとしていた国ぶりが、この道眞公の時代にしっかりと形作られたといえます。
そんな道眞公が貶められる事無く、冤罪が晴れるという日の目を見た。今日の佳き日にふさわしく、京都、大阪ともに素晴らしい青空の一日でした。
写真は御旅社での神事、北野天満宮、『国史大系』第5巻 日本紀略 菅公冤罪消除の段
https://dl.ndl.go.jp/pid/991095
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