彫刻家の独り言

北海道出身の彫刻家 黒田栄一のブログです。Yahoo!ブログ「彫刻家 黒田栄一 山のアトリエ」も見てください。

アルバイト その2

2011年01月20日 05時08分08秒 | 日記
最近寒さが身にしみる

少しエネルギーが低下しているのかも知れない。


昨日に引き続き 今日もアルバイトの思い出第2弾です。

中学でアルバイトをした記憶はありません。

高校は一応アルバイト禁止だったはずですが、それほど厳しくはなかったのか

やっている人も結構いたようです。

私もご多分にもれず やっていました。

よくやったのは日通の荷物運び。

こちらの都合の良い日に行けばほとんど雇ってくれたからです。

大学生と偽ってやっていました。

これは1日4回、駅に到着した貨車から荷物を運び出して

パレット(フォークリフトで運べるように作った木の台のこと)に

荷物を積んでゆく作業です。

何が出てくるかはその時のお楽しみ。

お菓子の箱など軽いものなら大喜びでした。

しかし、そうは問屋が卸してくれません。

自動車部品のような物や金属製品、大きな缶入りの品物などかなりの重量物も多く、

結構な肉体労働で、「大体の大学生は2~3日で辞めてしまう」と現場の社員の言。

大学生なんかに負けるものかと頑張り、よく働くとおホメにあずかりました。

私は柔道をやっていたこともあり、いささか体力には自信がありました。

肉体労働といえば、旧国鉄の除雪作業もしました。

これも重労働でしたが休憩時間が長かったので比較的楽でした。


変わったところではプロレスの特設リング作りもしました。

テレビでよくコーナーポストに頭を打ち付けたりしているのを見ていたので

手でコンコンと叩いてみました。

正真正銘、固い鉄で、「こりゃあ痛い!」とビックリでした。

又、リング内の床マットは、テレビで見ていた時にはもっと柔らかいのではないかと

想像していましたが、かなり堅くて 床にたたきつけられると

さぞや痛かろうと思いました。

プロレスはかなり危険で大変な仕事なのだと思った次第です。

興行を見ても良かったのですが、夜の興行でしたので親からの許可が得られず、

見ることは出来ませんでした(タダで見られる機会でしたのに大いに残念です)

高校でのアルバイトはそれくらいでした。


浪人時代(1年間)にやったのは、青果の卸売市場の荷物運びです。

これは毎日早朝から正午近くまでの間、仲買店から買った商品(青果)を、

買いに来た小売り店の車まで運んで積み込む作業でした。

ネコ車(リヤカーを小さく細くしたような運搬器具)に商品を満載して

車まで運ぶのですが、体重をかけてもなかなかネコ車のおしりが持ち上がらず、

自分の身体が宙ぶらりんになることもありました。

それでも うまくしたもので コツがつかめると何とか運べるようになります。

他に大変だったのが広い駐車場(すご~く広い上1ヶ所ではないのです)に

駐車した小売り店の車を見つけることです。

いつも買ってくれる小売り店はほぼ決まった場所に駐車してくれているので、

慣れてくると見つけやすくなりました。

リンゴの箱詰めを運ぶのが1番大変でした。

ともかく重いのです。

これを運んでいて 初めてギックリ腰になりました。

全く 何も持ち上げられなくなり、驚きました。

それから 長~い 私のギックリ腰の歴史の始まりです。

今日まで何十回もギックリ腰になりました。

よく、ギックリ腰は癖になるといいますが、本当です。

お陰様で 少しくらいのギックリ腰では驚きません(えっ?自慢になるの!!?)

嬉しかったのは少し傷んだ果物をいただけることです。

パイナップルなどは少し痛んでいるくらいの方が甘くて美味しいのです。

パイナップルは結構頻繁にいただいて帰りました。

暇な時間には傷んだ果物を検査して抜き出すことも仕事ですが、

痛みの少ないものは食べました。

それは黙認されていました。

その日の卸値が分かるものですから、

お店で売っている果物を普通に買う気がしなくなりました。


このアルバイトのバイト料は月払いで毎日の仕事でした。

そのお金で美術の予備校の授業料を支払っていました。

このアルバイトは父が亡くなるまで続けました。

このあたりの顛末は 又後の機会に記します。



「アラヨッ」 大理石 黒御影石