今手がけている 作品の磨きが終わりました。このまま終えるか、
作品表面を装飾するか未だ考え中。
しばらく眺めながら考えることにします。
新作の発表は次回の個展までお預けです。
今年の個展の予定は未定です。
費用などの関係もあり、決められずにいます。
今のところ 後数日で始まるアートスクランブル展、
5~6月に多摩美術家協会展招待出品、6月の全道美術協会展への出品が
決まっているだけです。
昨日に引き続き、今日は大学時代のアルバイトについて書きます。
大学時代、家からの仕送り額が部屋代以下だったので、
当然 多くのバイトをすることになりました。
それでも、特別奨学金を頂いていたので アルバイト量は かなり軽減されました。
基本方針は 「本当に困らない時にはアルバイトをしない」「勉強最優先」でした。
かなりの覚悟で大学に行きましたから。
それでも 石等の材料を買う為にアルバイトをしましたが、
遊びのためにはしなかったと思います。
ですから 多くは単発で、なるべくバイト料の高いものを選びました。
当然、今で言うところの3Kが多くなります(危険、きつい、汚い・・でしたっけ?)
横浜の港で船への荷物運びは印象的でした。
夕方になると人集めに来ます。
それに応募して、近くの安食堂で夕食をとり終えて約束の場所にいると、
迎えに来たトラックの荷台に乗せられ 船まで連れて行かれます。
それから 朝まで荷運びの仕事です。
バイト料はかなり高く、そこで働く人の多くは近くのドヤ(ベットだけの安宿)に住み
お金が無くなるまで飲み食いし、無くなると働くという生活をしているのだと
そこで働いていた以前大学生だったという人から聞きました。
その人は大学時代にアルバイトでそこに来て
そこの気ままな生活に溺れて大学をやめて、ドヤ暮らしをしているとのことでした。
私に、自分のようになる前に こんな仕事を辞めるよう諭してくれました。
1回のバイトで大体1週間近く、ブラブラ飲み食いして暮らせる程のバイト料でした。
荷物運びの途中で休憩があり、その度に博打を始める人もかなりいました。
サイコロでするトバクでした。
お金をじかにかけているのです。
見ていると、私も参加するよう誘われましたが、とんでもない話です。
魂胆は見え見えです。
せっかくのバイト料を巻き上げられてなるものですか。
そそくさと、その場から離れました。
目の前で 一晩のバイト料を失っていく人たちを見て 信じられない思いでした。
夜の船での作業ですから 海に落ちて亡くなる人もいるという話でした。
そのほとんどは身元不明者だと言うことでした。
仕事そのものは そんなに辛くは感じませんでしたが、
先輩の忠告に従って 以後、そこに近づくのを止めました。
ある時は 何やら怪しげな工場のタンクの清掃作業もしました。
これも 当時としてはかなり高額なバイト料でした。
しかも 昼食付きです。
しかし、命の危険を感じたので 長くはやりませんでした。
会社の人は一人も清掃場所に入らないのですから、かなり怪しい感じでした。
喫茶店などでバイトしている学生をうらやましく思いましたが、
そんな暇はないと、敢えてきつい仕事をしてました。
ガードマンの仕事もしました。
3日3晩ぶっ続けで仕事すると、1回石が買いに行けました。
さすがにぶっ続けですので、途中に仮眠時間がありました。
昼間は車の誘導で夜はデパートの見回りです。
恐がりでしたので夜の見回りは かなりキツく感じました。
特に怖かったのは 屋上と地下の機械室でした。
この2ヶ所は暗くて 物陰から何やら出てきそうで怖くて仕方有りませんでした。
しかし、短期で稼ぐには良いバイトでした。
工場の守衛もしました。
工場は広いので夜中の見回りは怖くてたまりませんでしたが、見回り以外は
自由に本を読んだり絵を描いたり出来たので大変ありがたい仕事でした。
その会社には図書室がありましたので本が読み放題でした。
電機工場の部品の選別や検査もしました。
これも 食事付きで良かったのですが
何せ夜中の単調な仕事で、ともかく眠くなって困りました。
比較的楽なバイトとしては入試の試験監督や
昼休みの学生食堂の皿洗いなどがあります。
学食の皿洗いは午前の授業が終わるやいなや、すっ飛んで行きます。
普段、月に1~2度さえ学食で食べることが出来なかったので、
昼食付きでありがたいバイトでした。
単発ですが砂利を山の上まで担いで行くというのがありました。
1袋持ってあがるとその場でお金をくれたのです。
ほとんど毎日その山に登っていたので、1日で11袋くらい担ぎ上げました。
大学時代の最後を飾ったバイトは、
美大生だったのでありつけたデパートのディスプレーでした。
これも夜中の仕事で途中で夜食が出るのも魅力でした。
ただ 朝方になると眠くて困りました。
黒御影石