仕事ついでに、祖父の家の引き払いの準備をしに行った。今週中には地主に鍵を返すことになっており、私にとって祖父宅訪問はこれが最後になる。あらかた片付けは済んでおり、あとは粗大ゴミを出すばかり。今回は、まだ残っているアルバムを持ち帰りに来たのだ。仕事用のキャリーバッグでは入りきらず、仕方なく古新聞入れに入った膨大な写真を片手に抱え、青息吐息で家に帰ってきた。
古い写真が続々と出てくる。祖父は親類が早くに結核やら何やらで全滅してしまったため、見たことのない人の写真ばかり。しかも、祖父があまり昔の話をしなかったので、手がかりがほとんどなく誰が誰だかわからない。そんな中、祖父が「ウチのご先祖様」と話していた、祖父の祖父・萬吉氏の写真が出てきた。写真に名前が書いてあり、かろうじて判明したのだ。
祖父は港ヨコハマの中心地・長者町生まれのバリバリのハマッ子だが、そもそも横浜に出てきた張本人が、萬吉氏である。ここに、祖父の家の押し入れから出てきた「甲斐名鑑」(昭和6年刊)という本がある。甲斐、すなわち山梨県出身の事業家を紹介した本で、その中に萬吉氏の紹介がされていた。原文を極力忠実に抜き出してみる。なお、()内は筆者注。
氏は東八代郡鶴瀬村(現・大和村。ぶどうで有名な勝沼町の隣)に生る。明治初年横濱に出で奮闘力戦露天商までしたが、幸いに努力功現はれ金物商を現在地に開きて後は事業最も順潮に進みついに埋地方面有力者の一人とまでに成功の名を挙げた。偶々震災の為め全資殆ど焼尽せるも壮気旺盛なる長男清十郎(正しくは清「重」郎。祖父の父)は勇気を鼓舞し不撓不屈復興に力め(「つとめ」?)急ち(「たちまち」?)にして倍旧の資力を得て隆昌を来すことゝなった。氏は店舗を長男清十郎氏に譲り自から酒類商となり安静に余生を送ることとした。清十郎氏は最も穏健謹直にして店員を愛用し顧客に対する懇切本位なるより、年と共に隆昌に趣き同町方面稀れに見るの盛業を極めつゝある。
そ、そうだったのかー!もっとも、こうした本で悪く書くようなことはしないだろうから、実際の店のスケールの程はわからないが、清重郎氏は関東大震災の際に罹災者の救護に尽力したかどで当時の横浜市長から感謝状と記念品をもらっている(何と今日、その感謝状が出てきた!)ので、それなりの有力者ではあったらしい。でも、今じゃ店は残っていないしお家断絶(爆)。世間とはかくも無常である。
しかし、こうした資料が残されていたことで、謎だらけだった祖父一族のルーツがこうして明らかになるのだから、こういう物はとっておくものだ。祖父は非常に物持ちが良く、押し入れやタンスの奥底から、昔小間物屋を経営していた時の売り物だった綿だとか、小さい頃よく遊んでいた足踏み式ミシンだとか、母たちの成人式の着物だとか、それこそ無尽蔵のように出てきて、どうしたものか困り果てたのだった。心を鬼にして、ほとんどの物は捨てたのだが、ゴミ袋を50枚以上は使っただろう。それぐらいすごかったのだ。
「あっ…!」と思ったことがあった。先ほどの萬吉氏が写っていた写真というのは、清重郎氏の妹の嫁ぎ先である家の墓が完成したのを記念した集合写真だったのだが、その妹の名前は「なつ子」とあった。兄妹合わせて「お夏(なつ)と清十(重)郎」…私が大学時代に専攻していた近世散文の大家・井原西鶴の名作「好色五人女」の登場人物とかぶっていたのだ。ちょいと微妙かつ強引ではあるが、これもまた何かの縁だったのかも知れない。
もう、祖父の家に来ることもない。私ですら辛いのだから、生まれ育った家がなくなる母と伯母はもっと辛かろう。いつまでも忘れないよう、帰りがけにケータイで写真を撮っておいた。
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築50年平屋建て、ガスはプロパン、風呂は釜炊き(途中で使えなくなり、祖父は銭湯に通っていた)。庇のトタンは強風が吹くとバタバタするし、鍵はかかりにくいし、冬は寒いし夏は暑いし大変だったが、思い出のたくさん詰まった大好きな家だった。取り壊しはしばらく先になるようだが、とりあえずはこれで見納めである。さらば!
古い写真が続々と出てくる。祖父は親類が早くに結核やら何やらで全滅してしまったため、見たことのない人の写真ばかり。しかも、祖父があまり昔の話をしなかったので、手がかりがほとんどなく誰が誰だかわからない。そんな中、祖父が「ウチのご先祖様」と話していた、祖父の祖父・萬吉氏の写真が出てきた。写真に名前が書いてあり、かろうじて判明したのだ。
祖父は港ヨコハマの中心地・長者町生まれのバリバリのハマッ子だが、そもそも横浜に出てきた張本人が、萬吉氏である。ここに、祖父の家の押し入れから出てきた「甲斐名鑑」(昭和6年刊)という本がある。甲斐、すなわち山梨県出身の事業家を紹介した本で、その中に萬吉氏の紹介がされていた。原文を極力忠実に抜き出してみる。なお、()内は筆者注。
氏は東八代郡鶴瀬村(現・大和村。ぶどうで有名な勝沼町の隣)に生る。明治初年横濱に出で奮闘力戦露天商までしたが、幸いに努力功現はれ金物商を現在地に開きて後は事業最も順潮に進みついに埋地方面有力者の一人とまでに成功の名を挙げた。偶々震災の為め全資殆ど焼尽せるも壮気旺盛なる長男清十郎(正しくは清「重」郎。祖父の父)は勇気を鼓舞し不撓不屈復興に力め(「つとめ」?)急ち(「たちまち」?)にして倍旧の資力を得て隆昌を来すことゝなった。氏は店舗を長男清十郎氏に譲り自から酒類商となり安静に余生を送ることとした。清十郎氏は最も穏健謹直にして店員を愛用し顧客に対する懇切本位なるより、年と共に隆昌に趣き同町方面稀れに見るの盛業を極めつゝある。
そ、そうだったのかー!もっとも、こうした本で悪く書くようなことはしないだろうから、実際の店のスケールの程はわからないが、清重郎氏は関東大震災の際に罹災者の救護に尽力したかどで当時の横浜市長から感謝状と記念品をもらっている(何と今日、その感謝状が出てきた!)ので、それなりの有力者ではあったらしい。でも、今じゃ店は残っていないしお家断絶(爆)。世間とはかくも無常である。
しかし、こうした資料が残されていたことで、謎だらけだった祖父一族のルーツがこうして明らかになるのだから、こういう物はとっておくものだ。祖父は非常に物持ちが良く、押し入れやタンスの奥底から、昔小間物屋を経営していた時の売り物だった綿だとか、小さい頃よく遊んでいた足踏み式ミシンだとか、母たちの成人式の着物だとか、それこそ無尽蔵のように出てきて、どうしたものか困り果てたのだった。心を鬼にして、ほとんどの物は捨てたのだが、ゴミ袋を50枚以上は使っただろう。それぐらいすごかったのだ。
「あっ…!」と思ったことがあった。先ほどの萬吉氏が写っていた写真というのは、清重郎氏の妹の嫁ぎ先である家の墓が完成したのを記念した集合写真だったのだが、その妹の名前は「なつ子」とあった。兄妹合わせて「お夏(なつ)と清十(重)郎」…私が大学時代に専攻していた近世散文の大家・井原西鶴の名作「好色五人女」の登場人物とかぶっていたのだ。ちょいと微妙かつ強引ではあるが、これもまた何かの縁だったのかも知れない。
もう、祖父の家に来ることもない。私ですら辛いのだから、生まれ育った家がなくなる母と伯母はもっと辛かろう。いつまでも忘れないよう、帰りがけにケータイで写真を撮っておいた。
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築50年平屋建て、ガスはプロパン、風呂は釜炊き(途中で使えなくなり、祖父は銭湯に通っていた)。庇のトタンは強風が吹くとバタバタするし、鍵はかかりにくいし、冬は寒いし夏は暑いし大変だったが、思い出のたくさん詰まった大好きな家だった。取り壊しはしばらく先になるようだが、とりあえずはこれで見納めである。さらば!
私も、今の家を建て替えるとき、生まれ育った家とさよならしたわけですが、不思議とそんなに寂しさを感じませんでした。新しい家に対する期待の方が、大きかったのかもしれません。それでも、壊された家の跡から、お風呂が見えたときには、「ああ、もうないんだな」と思いました。
ちなみに、うちの先祖・・・私の父方のひいじいさんは、山口で酒蔵を営んでいました。最初から、選挙権を持っていたと父は言っていました。しかし、酒蔵を営んでいたひいじいさんの血を受け継いでいるのは、父と妹だけのようでして(爆)。
ふ~む、なるほど。まぁ、今回の我々の場合は、この土地を引き払ってしまうわけで、もうここに来ることがない、というのが寂しさの大きい理由なのかも知れません。家は古いですが、周りに店も結構多くて便利だし、交通の便も悪くなくて、経済的な余裕さえあれば、誰か引き続いて住んでも良かったんですがねぇ(苦笑)。