千種姫の塚
時代は南北朝。後醍醐天皇の政治は、天皇・貴族を中心とする政治であった。貴族や社寺の保護に厚く、武士の恩賞や要望に応えることが薄く、武士層に大きな不満と失望を与えた。こうした政治情勢を背景に諸国の武士たちは建武の政治を打倒しようと立ち上がる。中心となったのが足利尊氏である。
尊氏は鎌倉幕府に反旗をひるがえし、新田義貞軍勢と戦う。尊氏、京都の石清水に陣を取るがこの戦いに敗れ、新田義貞軍勢に追われ京都を離れる…九州へと。その途中、丹波園部若森の地に千種姫(尊氏の妹)を残していく。若森の一宇(寺)で千種姫は兄(尊氏)の武運を祈り続けた。
尊氏再度、軍勢を立て直し京に攻め入り、…後に征夷大将軍となる。
丹波の地に残した千種姫の安否、生活が気にかかる。寺は戦火で荒れ果てていた。尊氏は一宇を立て直し、寺の名を「天下泰平・萬民普済」の為とし、『太平山普済寺』(臨済宗)に改めた。
本堂前から少し離れた別墓地内の小高い所に、伝千種姫がねむる塚(墓)がある。姫を偲ぶのには格好の場所であろう。
総高約85㌢、搭は「地・水・火・風・空」で構成された五輪塔である。
篠山街道(山陰街道)はどこを歩いても新しい発見でいっぱいだ。150年前に…タイムスリップできる。江戸中期頃~明治の中頃迄の家屋の佇まいが、古い建築様式が今に残る。
当時の庶民の家は平屋造りか「厨子二階(つしにかい)」が多かった。ここは参勤交代の諸大名が通った古道である。町人が武士を見下げる事がないように幕府の定めがあったのかも?。今でいう建築法である。「厨子二階」には通常「虫籠窓(むしこまど)」という窓を付け、明り取りをするのが京家屋の特徴である。用途は主に物置として又使用人の寝泊まりに使われていたようです。
(写真は南丹市園部町南八田)
駒寄せ(こまよせ)
昔の篠山道は、京都から埴生の宿場を経由して、篠山へ向かう主街道で宿場町として栄えていた。当時の京町家・宿場の雰囲気が残っている「駒寄せ」に目が止まる。「駒寄せとは」馬の手綱をくくりつける。又人馬の侵入を防ぐためのもの…諸説あり。外観に威厳と格調が感じられる。街道筋でないとみられない!
(写真は南丹市園部町埴生)
明智光秀方の供養塔
園部町南八田は豊かな文化財と自然が残っている。ここ「曹源寺」に明智光秀方の供養搭(五輪塔)があることは、…あまり知られていない?
天正三年(1575)頃、織田信長の家臣〝明智光秀〟の武将がいた。主君信長に丹波平定の命を受け進撃を始めた。しかしここには丹波各地域を支配する土豪波多野氏(八上城)、荻野直正(黒井城)、内藤氏(八木城)がいる。在地土豪たちの抵抗は激しく、戦いは一進一退を繰り返す。その戦いの一つが園部町南八田と言われている。光秀軍も亀山城へ総退去をする状況にもなる。…攻撃と和解を繰り返し天正8年(1580)、波多野秀治の籠城する八上城(篠山市)が落城する。ここまで5~6年歳月を要している。
又、丹波平定の為に、光秀が軍事的拠点として整備したのが亀山城で、「亀山惣掘普請(かめやまそうほりふしん)」の城とも呼ばれている。
所在地:【南丹市園部町南八田 満流山曹源寺】
南八田の五輪塔
(園部町南八田)
天正3年(1575)の頃、天下統一を目指す織田信長は、家臣である明智光秀に丹波平定を命じました。光秀は亀山城を築きここを拠点として、丹波の豪族波多野秀治と戦いを繰り広げました。ここ園部町南八田が主戦場となり八田川を挟んで死闘が展開され、激しい戦いが幾日もつづく…、八田川は血の川となったと云われている。戦いは光秀軍の勝利に終わる。ここに、戦場で亡くなった悲運の武将波多野勢の供養として「南八田五輪塔」として波多野関係者が建てたものです。また八田の曹源寺には明智光秀方の供養塔が山門脇に鎮座する。八田の山裾には小さな一石五輪塔を見ることができます。何れも供養塔と思われます。
※この五輪塔は南八田の中心地、八田橋の横あたりにあります。
(一部、本梅深友会の案内より引用)
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