ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

篠山街道(山陰街道)の温故知新

2018-03-05 | 街道
一枚、また一枚と歴史街道のページをめくる…。「格子」「虫籠窓」「千木」「蔵」「紅柄」等を持つ家が目に飛び込んでくる。立ち止まる。ここにはまだ京町家の風情がいっぱい残っている。「造り酒屋は瑠璃の誉(銘酒)」や「醤油屋」など、庶民の暮らしを支えてきた地場産業も…幾星霜の歳月である。

千木(ちぎ
屋根の両端で交叉させ屋根を支える重要な部材である。数は奇数で「5本・7本・9本・11本…」、11本ともなると格式のある家である。

格子(こうし)
窓から外へ張り出て作っている。足元が浮いている状態のものを言う。わかりやすく言うと出窓のようなもの。

虫籠窓(むしこまど)
二階に設けられ通風や明り取りの窓、形が虫籠に似ている所から呼ばれる。

今街道が面白い、歩いていにしえの面影を見る。ひと味違った…何かときっと出会うはず…。

国宝「普済寺」の開山、開基

2018-03-04 | 神社仏閣
国寶「普済寺」の開山/開基
京都府南丹市園部町若森に佇む「普済寺(ふさいじ)」を度々訪ねている…。
地域に息づく歴史が、実は中央歴史に直結していたとは…驚きである。そのひと幕に触れてみよう…。

国寶普済寺は、平安時代は天台宗寺院として創建されている。足利尊氏が夢窓疎石(むそうそせき)を開山として、その弟子千種姫(尊氏の妹)を開基として創建したと伝えられている。当然この寺の初代住職は千種姫(ちぐさひめ)である。
夢窓疎石(僧侶)は、京の天龍寺や西芳寺等多くの寺の開山をしている高僧。また天皇から〝国師〟の称号を与えられ、過去、生前死後にわたり7人の天皇から7度も〝国師〟を賜っている。それ故「七朝帝師(しちちょうていし)」とも呼ばれている。又西芳寺庭園、天龍寺庭園等、多くの庭園を世に残している。
寺は一時、荒廃したが江戸時代の寛永11年(1634)、亀山藩主菅沼織部正定芳が復興している。此の時に曹洞宗に改宗した歴史が残る。
(写真は国寶仏殿で禅宗様の様式が随所見られます)


普済寺の落穂

2018-03-03 | 神社仏閣
国宝普済寺
国佛 寶局 修理記念碑(表)
昭和八年立(裏)
この碑は佛殿の裏にありました。案内板は無い為、自分で解読…中々難しいね…。
石碑の「局」の字に時間がかかりました。やっと解読ができアップします。『寶局』で間違いないでしょう。

寺の縁起等は寺・行政の公式HPを参照下さい。
ここでは、まだ知られていない?石の文化財の落穂の紹介です。


(修理記念碑のイラスト)

普済寺の誕生

2018-03-02 | 神社仏閣
普済寺

2.地域の歴史【普済寺の起こり】
農芸高校前に立つ。
開けた田んぼの中にこんもりとした鎮守の森が見える。遠景に普済寺の伽藍が見え隠れする。道は二つに分かれどちらからでもいけるが表参道から…気分は足の裏から伝わってくる。
入口には石門柱に「天下泰平」、左には「万民普済」と銘刻がされ、左右に宝篋印塔(二基)、禁葷酒の石塔を置く。一歩境内に入ると緑の香りに囲まれる檜林、整備された境内は別世界感である。少し歩くと梵鐘付山門につく。
正面に本堂、右に庫裏である。寺の創建は平安初期と寺の由緒に載る。この寺の全身は本梅川若森の小高い台地にあったと聞く。今はスギやヒノキの植林となり寺の面影は…残っていないが地名は寺元と今も残る(まだ未調査である)。
時は南北朝の頃、新田義貞軍に追われた足利尊氏が九州に落ちのびる途中、妹の千種姫をこの地にとどめている。千種は兄(尊氏)の武運を日々祈ったという。
数か月が過ぎ…尊氏、軍勢を立て直し、再度京に攻め入る。その後に京に入り征夷大将軍となっている。尊氏は戦で荒れ果てた寺(本梅川若森)を復興した(1346年の頃)。
此の時、太平山普済寺(臨済宗)と改め、「天下泰平」「万民普済」とした。寺の開基は千種姫である。

古文書

2018-03-01 | 古文書
生身天満宮

菅公祭 祀千年 歳梅域 芳春聞 囀鶯政 道郡揚 今古誉 貴裁一貫 尽忠誠
恭献詩天満宮 
昭和五十二年丁巳春
崇敬者田井梅篁忠

京都市南丹市園部町の生身天満宮で見かけた詠です。
難解なくずし字でした。
天満宮に行かれた時は、目をキョロキョロさせ探してみて下さい。