秀則が視察で海外に出発したのは、2.26事件で軍部が実権を握る暗い世相の始まりの頃だった。
世界恐慌の混乱からいち早く脱した日本(といっても好景気を迎えられた訳ではない。庶民の生活は貧しいままで、国家経営がどん底から這い上がったというだけ。)しかしその一番の功労者である高橋是清がクーデターの犠牲になるなど、アメリカの人種差別の批判などしている場合ではない程の、政治の世界に理不尽な暴力がまかり通っていた。
結果、軍の要求は即ち国家の施策となり、鉄道省の役割も戦争準備の総動員体制構築が急務となる。
秀則は海外視察から帰ってすぐの1937年6月、鉄道省本省の運輸局運転課への配属となった。
そして翌月の7月7日盧溝橋事件勃発。小競り合いの末、翌8月に入ると戦闘が本格化しだす。
ついに日本は帝国陸軍の派兵を決定、人員、物資の輸送の軍事優先体制が敷かれた。
如何に効率よく人員・物資の輸送を円滑に進めるか?
秀則が所属した運輸局運転課は、その技量が問われる重責に直面した。
秀則は相変わらず多忙を極めたが、気晴らしに視察の仲間だった島村秀雄、松平仁、三木正之と時々集う事にしている。
本省近くの小料理屋に久しぶりに集まってみると、それぞれが職場の不満を抱えていた。
酒が入るとたちまち当たり前のように愚痴の発表会となる。
先頭バッターは島村。
「俺が開発したTX型(後のいすゞ車トラックの原型)は軍用車として高い評価を得てはいるが、(自分で言うか?)俺は本来蒸気機関開発技術者だ!どうして何でも屋のようにあっちもこっちもやれ!って言われるのか納得できない!」
島村は酒で頬を赤くしながら目が座っている。
(あれ?こいつって、こんなに酒癖悪かったか?)と思い乍ら僕は
「国産自動車の開発プロジェクトには、お前が積極的に手をあげたんじゃなかったのか?」
「そんな訳無いだろ!
俺はあの当時、蒸気動車の開発に携わっていたんだぞ!
それなのに上司の命令一下で仕事を中断して、商務省主導の自動車開発に出向させられてよ、鉄道省代表として国内自動車メーカーに共同参画したんだ。
そんなのってあるか?
おれは同じ内燃機関でも蒸気機関のエキスパートだぞ!それまでのガソリン内燃機関なんて専門外だし、知るか!って思っていたのに。
まぁ、俺の専門は確かに部品の中でもシリンダーだったから、ガソリンエンジンのシリンダーだって技術や知識は全くの無関係ではないけどもな。
でもよ、俺は鉄道の技術畑として自信とプライドをもって今までやってきたんだ。
鉄道省に採用された最初の仕事は、蒸気機関車の石炭小僧だったんだぞ。
帝大卒の技師の俺が、機関車の運転席の隣でエッチラ・ホッチラ石炭を窯に放り込む仕事からやっているんだ!運転手に「ホラ!もっと早く石炭をくべんか!」って叱られながらよ。
分かるか?この俺が黒煙で顔を真っ黒にしながら汗を流している姿を!」
「お前の顔が真っ黒になったのなら、精悍に見えてさぞかし女に持てただろう?」
「やかましい!」
皆に笑われて憮然とする島村。
「いいじゃないか、あんなキレイな奥さんに愛されていたら、それで充分だろ?」
「話を逸らすでない!何が女にモテるだ!俺の言いたかった本質はだなぁ・・・」
「分かった!分かった!そこまでして蒸気機関車開発に情熱を燃やしていたという事だな?アンタはエライ!」
「分りゃ良いんだ。分りゃ。」
「ところで松平君は島村と同じ技術畑だけど、順調そうじゃないか」
「何が順調なもんか!ボクだって省営自動車(国鉄バス)を国産車にすべく島村さんと同じ道を辿ってきたんだから。
蒸気機関車技師を一体何だと思っているのか、上の考えを疑うよ。」
「まぁ、仕方ないさ。内燃機関の知識と技術を持っているのはこの国じゃ君たちが一番だからな。」
「それに軍がおっぱじめたこの戦争で、僕たちの存在は引っ張りだこになってくるしな。」
「なってくるじゃなくて、もうなってるし。」
「そうだな、僕らは同じ技師でも技術者じゃないのにあっちこっち飛びまわされているもんな。影山さんなんて軍の無理難題にどうやって応えているのか不思議に思うよ。」
と三木。
「そうだな。僕らは内地担当なのに、樺太・台湾や半島、満州の規格にも合わせた輸送体制を組まなきゃならないなんて、無茶を言い過ぎだよ。」と僕。
「僕はまだ樺太には行ったことないけど、樺太も満州も極寒の地の運営なんて、南国台湾と同じにはできんだろ?
その辺が分かってないんだよ!上も軍も!」
「大体、考えてもみろよ、軍需物資の輸送を極限の状態まで効率化しろと簡単に要求するけど、それには各部署の緻密な連携と習熟した技術や知識が満遍なく総ての人員に高度に行き渡っていないと、必ずどこかで綻びの穴ができるんだ。
口の欠けたコップに水を注いでも、欠けた部分からこぼれ出して満杯にはならんだろ?
そんな簡単な理屈が理解できない者が上に居るのが嘆かわしいよ。」
「何だか皆、渡航中の船の中の愚痴と同じ事を繰り返して言っていないか?
不満は海外渡航する一年前と変わっていないんだな。」
「でもな、戦争が始まる前と実際におっぱじまった後じゃ、仕事の内容は変わらなくてもシビアさは格段に厳しくなったぞ。」
「そうだな。『・・・で、いつまでに出来るか?』から『○×日までに必ずやれ』だもんな。奴さんたち、『これは軍の命令だ!』で総て完結できると思ってるんだ。」
「俺たちって海外に何しに行ったんだろうな?」
こうして愚痴の洪水に呑まれながら夜は更ける。
僕が家に帰ると、百合子がいつものように温かく迎えてくれる。
「あなた、お帰りなさいませ。」
「ああ、今帰った。子供たちはもう寝たか?」
「ええ、こんなに遅い時間じゃ、秀彦も早次もとっくに寝ましたわ。」
「ここんとこ、子供たちの顔は週末の休みにしか見ていない気がする。」
「お仕事多忙のようですもの、仕方ありませんわ。」
「あぁ、疲れた。もう寝る。」
百合子は僕の様子を探るようにジッと見てくる。
僕が兄と話してから、少しは吹っ切れたのかと確かめるように。
戦争が始まってからは、次第に国内の雰囲気が戦争一色になってきた。
国民精神総動員が叫ばれ、検閲が強化される。
巷では大陸の花嫁・暴支膺懲(横暴な中国(支那)を懲らしめよという意味)の標語が飛び交う様になった。
「共匪追討」(共産主義の悪党を討て)や「抗日絶滅」が当然のようにキャッチフレーズとなる。
このように国民の戦闘精神を鼓舞するスローガンがそこかしこに目立つようになり、同調圧力が強くなったのもこの頃からだった。
一方アメリカではルーズベルトが精力的に動く。
日中戦争がはじまると中国人排斥法を廃止(日本人排斥法はそのまま)、蒋介石を支持し膨大な軍事借款を行う。
同時に工業都市デトロイトを軍需産業の一大拠点として発展させ、その後の第二次世界大戦へと続く戦争準備に邁進した。
それらは総て対日戦争準備の為であった。
当時ヨーロッパではナチスドイツが隆盛を誇り、アメリカにとって第一の脅威と見なされていた。
しかしルーズベルトの考えは違う。
確かにナチスドイツは脅威ではあるが、彼の頭の中での仮想敵国は常に日本であった。
ナチスがヨーロッパで覇を唱えてもアメリカにはさして利益的影響はない。
だが日本は違う。
更に彼はガチガチの人種差別主義者であり、黒人差別を放置してきたのも彼である。
そうした彼の思考の中では、消去法で敵が見えてくる。
黒人はアメリカ建国以来の奴隷資源であり、その供給が人道的批判に基づく国際環境の変化で持続できなくなると、清国から代替労働力を苦力として受け入れた。
更にそれに続く日本人入植者の移民。
これらは総て白人優位社会に於いては奴隷同様にしか見なしていない。
その中でも黒人は無力な存在であり、次第に増えた中国人と日本人には排斥法で圧迫を加えた。
だがその後の経緯を見ると、個々の中国人は労働意欲に欠け、向上心が見られず民度も低い。
それに対し、日本人は驚異的なスピードで成功を収めてくる。
寝る間を惜しんで働き続ける日本人の民族性は、やがてこの国の支配権を取って代わる存在として脅威なのだ。
現に一般のアメリカ人が日本人を嫌う理由に『働き過ぎる』からと答えている。
自分たちには真似のできない労働意欲と、明確な努力目標を掲げてどんどん自分たちの領域を浸食してくる日本人。
たかが有色人種のくせに!
働き過ぎは彼らにとって美徳ではない。
それが日本人には理解できなかった。
それに加え日本は、列強各国が野心を持っていた中国に一番食い込む手ごわい相手である。
そう、アメリカも中国に対し、利権の野心を持っていたのだ。
忌々しいライバルとしての日本。
アメリカは日清戦争直後から仮想敵国の照準を日本に定めていた。
というか、実はアメリカはペリー来航の時から対日戦争を企図している。
(実に驚くべき思考であるが、出会った当初から相手を敵とみなし、屈伏させる企てを持っていたのだ。)
幾度となく改訂を重ね、戦争の計画を策定してきた。
その計画とは『オレンジ計画』。
それは【カラーコード戦争計画】のひとつ。当時の交戦可能性の高い五大国を色分けし、戦争プランを策定したものである。
その中でもオレンジ計画は、アメリカが単独で日本と戦う場合、どのような作戦行動をとるべきか?あらかじめ立てたプランであった。
これは大まかに三案が存在した。
第一案 フィリピン、グアム等、西太平洋植民地領土を要塞化、陸・海軍を展開する。
第二案 緒戦に於いて日本軍の攻勢に西太平洋領土を持ちこたえさせ、カリフォルニアでの艦隊を編成、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援、西太平洋に出動、日本海軍決戦のため日本列島近海へ進撃、日本艦隊と決戦を行う。
第三案 ハワイを起点として、日本軍の拠点ミクロネシアの島嶼を艦隊戦力にて順次占領しながら反攻し、グアムとフィリピンを奪回するという兵站重視の長期戦案。
これらの具体的プランが日本本土侵攻作戦の具体的前哨戦プランとして1921年
から既に立案され存在していた。
(これは1930年代当時から見た近未来の話であるが、史実では第一案、第二案は要塞化に莫大な費用がかかるため実質的に没となり、残る第三案が採用される形となったが、ほぼ計画通り実行された。)
秀則がアメリカに抱いた印象は、決して的外れなものではなかったと云える。
この時代の世相を考えると仕方ないが、どうしても殺伐とした内容になってしまう。
ここで気分転換に再度藤堂家の生活の様子に視点を移そう。
秀彦が小学校に入学する頃、早次はまだ1歳だが、あんなにいつも母親にしがみつい
ていたのが嘘のように活発なヤンチャ坊主になっていた。
今まで多忙を極めた僕だが、一念発起!ここで一発、休みでもとってやろうじゃない
か!
戦争が何だ!イチイチ軍の都合に振り回されていて堪るか!
強引に1週間の休暇をとり、葉山など湘南方面の宿に連泊しようと思い立った。
丁度秀彦は初めての夏休み。早次もひとりトコトコ歩けるようになったから、もう大丈夫。
ようやく旅行に連れ出せる程成長したので、これを機に家族旅行と洒落込もう。
百合子とも新婚以来久しぶりの旅行だし、秀彦も早次もまだ海を見た事が無い。
汽車と乗り合いバスを乗り継いで、予約した海辺の旅館に辿り着く。
もう夕方だが、子供たちは初めて見る海に感嘆の声をあげる。
夕日に照らされた海を窓辺から眺め、
「今日はもう遅いから、明日の朝にでも海岸に行ってみましょうね。」と百合子が言う。
「え~!これから見に行っちゃダメなの?ボク、楽しみにしていたのに。
だって海だよ!こ~んなに広いんだよ!
早くいかないと、目の前の海がどっか行っちゃうよ!」と秀彦。
「海は何処にもいきませんよ。」と呆れた百合子がピシャリという。
ぴょんぴょん跳ねながら抗議する秀彦。
「それに長旅で疲れたでしょ?もうすぐ夕食だし、お腹も空いたハズよ。」
と見透かしたように畳みかける。
「そう言やボク、お腹が空いた!」
「ほらね。海は明日の朝一番に行くとして、今夜は美味しい御飯を食べてゆっくり休みましょうね。」
「ウン!分かった!!」
まだまだ反抗期の遠い、素直な秀彦であった。
早次は持参した飴を百合子から与えられ舐める。それだけでご機嫌。
こんな良い景色なら、お手伝いさんのおアキさんも連れてくれば良かったと思った。
といっても、旅行前に一緒に行こうと誘ったが、
「あたしゃ結構です!」と断られる。
「この歳で遠出だなんて、途中で行倒れになってしまうじゃありませんか。
あぁ、考えただけで身が竦みます。だからそんなのまっぴら御免です!」
「ハハハ!行倒れ?おアキさんは大袈裟だなぁ!そんな訳ないじゃないですか。
それにもし、おアキさんが行倒れたとしても、見捨てて放っておいたりしませんよ。
ねえ、百合子。」
「そうですよ。日頃からこんなにお世話になっているおアキさんに感謝の気持ちを現わせるのは、こんな時しかないのですから。ね?一緒に行きましょうよ!」
と気持ちを込めて言う。
頑ななおアキさんはそれでも固辞する。
「あたしゃ家でしっかりお留守をお守りしますので、どうぞご安心なさってご旅行に行ってください。無事の帰りをお待ち申しておりますので。
あぁ、でもひとつ。出来ましたらお土産にお団子でもいただけたら申し分ございません。
図々しいとは思いますが、それを楽しみにお留守番させていただきますので。」
「おアキさんはヤッパリお団子やお餅系がお好きなんですね。
分かりました。それでは留守を宜しく頼みますね。」
と言ってひとり残してきたのだ。
夕食を終え、騒々しくはしゃぎまわる子供達。
移動疲れから草々に就寝したが、翌朝の目覚めるのが早い事!
早次が僕の布団の上から腹のあたりを右から左へ、でんぐり返しを繰り返えす。
秀彦は布団の中で夢心地の僕を激しく揺り起こす。
こんな時の子供達は情け容赦がない。
秀彦は僕が起き上がるまで「ねぇ、海行こう!」とせがみ続ける。
僕はリフレッシュするつもりで家族旅行を計画したのに、返って人生に疲れてしまったようだ。
つづく