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『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』【カクヨム】連載版 第21話「井上敏郎と杉原千畝」

2023-01-08 02:03:08 | 日記

  ー杉原千畝ー

 

 彼は異彩な経歴の持ち主であった。

 1900年、現在の岐阜県美濃市で税務官吏を父に生を受ける。

 尋常小学校、中学校と常にオール5の成績を誇る秀才として、現在の早稲田大学教育学部に入学、しかし父の意向に反した進路を選択したとの理由で仕送りをストップされ、そんな経済的原因で中退、その後外務省留学生試験を受験、見事合格した。

 

 官費留学生として当時の中華民国・満州ハルピンに派遣され、ハルピン学園にてロシア語を猛勉強の末習得。

 1920年朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年入営)、最終階級少尉まで昇る。

 1923年満州里(領事館)に転学。

 1924年外務省書記生として採用。

 1932年満州国外交部事務官となる。

 

 その間、千畝は『ソビエト連邦国民経済大観』を書き上げるなど、ソ連通の第一人者としての評価を得る。

 千畝はソビエト通として圧倒的な名声と実績を残したが、返ってそれが仇となった。

 関東軍はその能力を買い、千畝にスパイとしての作戦行動を命じる。

 しかし千畝はそれを断る。

 それでも尚且つ自分をスパイにさせようと強要した軍部の横暴に反発、退官し、白系ロシア人クラウディア・セミョーノヴァナ・アポロノワと結婚した。

 

 関東軍は命令を断って辞任した千畝の事を許さない。

 そこで陰湿な陰謀を企て、クラウディアはソ連側のスパイとの風評を流した。

 それが原因で千畝とクラウディアは離婚する。(これが決定的理由で満州国・関東軍と決別、そして満州には居られなくなる。)

 その後一時日本に帰国し、知人の紹介で菊池幸子と再婚。

 外務省に復帰する。

 

 早速外務省は、千畝にソビエト連邦モスクワ大使館勤務を命じる。

 

 しかしソ連通の彼は、ソ連当局から反革命白系ロシア人と深い親交があるとの濡れ衣を着せられ(その原因は後述する)、それを理由にソ連当局からペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)のレッテルを貼られる事となり、千畝のモスクワの在ソ連日本大使館への赴任は阻止された。

 

 満州の関東軍とソ連に敬遠され、活躍できる場所が狭められる結果となった千畝は、その後日本の外務省に新たな活躍の場が提示された。

 

 それはフィンランドのヘルシンキ大使館勤務を経て日本人が誰も居ない当時のリトアニアの臨時首都だったカウナス。

 そこに在日本領事館を開設、千畝ひとりだけしかいない領事館・領事代理として赴任した。

 当時 すでに現在の首都であるリガに、日本大使館が存在していたのにである。

 

 何故なぜ

 

 それは日本の外交事情の特殊な都合の、不自然な領事館開設であった。

 

 当時日本は1939年、ノモンハン事件でソ連と対決。

 手痛い敗北を喫している。

 それ故、対ソ連動向の情報収集は、喫緊の課題であった。

 日独伊三国軍事同盟締結後、ソ連の正確な動きと、独ソ戦があるかどうかの正確な見極めが是非とも必要だった。

 ソ連のシベリア駐在部隊がドイツ戦線に動員されれば、シベリアは手薄になり、満州守備のため貼り付けにされていた関東軍を自由に動かす事ができる事になる。

 

 それ故、当時のヒトラー率いるナチスドイツと、スターリン率いる赤軍が対峙する中、日本としても諜報戦で卓越した成果をあげ得る人物の派遣が必須だった。

 そこで白羽の矢が立ったのが千畝であった。

 

 実は千畝は満州時代、満州国外交部の書記官として、対ソ北満州鉄道の譲渡交渉を担当している。

 その時のソ連側の譲渡条件である要求額6億2500万円を、1億4000万円まで大幅に値引きさせた。

 当時の6億円と云ったら、日本の国家予算の1割を超す巨額な負担である。

 その要求をくつがえし、結果安く買い叩いた事で、ソ連側に不利益を被らせた外交的成果は、千畝の緻密で卓越した諜報活動と、周到な調査により示した正当な施設評価の具体的資料収集の結果となった。

「一体どうやって調べた?」それがソ連側の疑問と感想である。

 それ程正確で克明だったのだ。

 当然ソ連側は、千畝に極度の警戒感を持った。

 それこそが千畝を一流の諜報能力を持った人物と結果的に認める事になるのだった。

 当然そうした千畝による日本側外交勝利が、ソ連側の恨みを買った。

 それがキッカケで千畝はソ連側に目を付けられ『ペルソナ・ノン・グラータ』の烙印を押され、極度に警戒される立ち場となる。

 関東軍によるクラウディアのスパイ疑惑も、ソ連側のスパイとの接触疑惑も、全くのでっち上げであり、千畝の非凡な諜報能力の証左となる。

 

 そうした有能さと実績を買われた、カウナス領事館赴任の千畝に課せられた使命。

 それは誰も居ない筈の在留日本人対応などではもちろんなく、東欧諸国の動静把握などの情報収集、及び独ソ戦の時期の特定と云う、国家存亡に関わる重要な諜報活動をすることにあった。

 

 そこで登場するのがポーランド諜報機関組織との連携と情報交換。

 千畝には複数のポーランド情報将校との交流があった。

 またポーランド日本大使館などとの情報共有や、連携構築など、多岐にわたった諜報活動をしている。

 

 そうした諜報活動には当然身に危険が及ぶ可能性がある。

 それ故に活動中、身に危険が迫ったポーランド諜報将校のナチスドイツからの保護、逃亡を助ける役なども任務のうちであった。

 だからその時のためのビザ発給権限も、千畝には与えられていた。

 但し、そのビザ発給の想定は諜報活動要員のみに限られていたハズだが、想定外の事態が起きた。

 

 それはナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が、命のビザを求めてカウナス領事館に押し寄せてきたあの有名な事件である。

 

 ある日の朝、領事館の窓の外に殺到する人々の姿に驚く千畝。

 

 彼らはナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民達であった。

 早くここを去らないと、捕まって殺される。

 

 切迫した彼らユダヤ人を無碍むげに見捨てる事なんて到底できない。

 千畝は、日本本国の意向に反し、大量のビザを発行した。

 その結果多くのユダヤ難民が出国でき、ナチスドイツの迫害から逃れる事ができた。

 

 千畝が救ったユダヤ難民の総数6000人以上。

 

 

 ここでひとつの疑問。

 

 

 千畝は陸軍のスパイ要請を断わったのに、何故外務省の諜報活動は引き受けたのか?

 スパイ=諜報部員ではないのか?

 実は同じ諜報活動でも、陸軍と外務省では質的な違いがあった。

 陸軍のスパイ活動とは諜報の他、謀略や破壊活動も含まれる。

 場合によっては暗殺や、濡れ技を着せての要人失脚工作などもあり得た。

 

 それに比べ外務省の諜報活動は、主に情報収集が任務で、逆に偽の情報がせネタを流す事も。

 要するに、情報戦か、破壊工作を含む謀略戦かの違いなのである。

 それはそのまま陸軍省と外務省の役割の違いであった。

 外務省は外交で有利な立場を得る事。

 陸軍省は軍事的に有能な立場を構築する事。

 だから両者の諜報活動に、質的違いがあるのは仕方なかった。




 当然暴力を含む理不尽な謀略を嫌う千畝がどちらを選ぶかは、初めからハッキリしている。




 因みに、ちょっと脱線するが、時期を同じくして(1937〜1941年にかけて)千畝が以前滞在していた満州帝国ハルピンの特務機関長樋口季一郎少将が、現地に住むユダヤ人達で構成するユダヤ人会の強い要請と懇願を受け、「ヒグチ・ルート」と呼ばれる脱出路を作った。

 シベリアから満州に逃れる事ができたユダヤ人難民を、満州にて受け入れる事を拒否する事を決定した満州国当局 (要は日本本国の意向)に従いながらも、国外に脱出させ、ユダヤ難民の総数2~3万人を救出している。(総数には諸説あり)

 杉原千畝と樋口季一郎は洋の東西で、同時期にユダヤ人救出に尽力していたのだった。

 

・・・もしかしたら共通する進歩的人道派である杉原千畝と樋口季一郎は、ハルピンあたりで面識があったのかもしれないと作者は推察している。

(また樋口季一郎少将は後にアッツ島・キスカ島での戦闘でも、歴史上名の残す作戦『キスカ島奇跡の撤退』の指令として指揮している。

 更に彼は1945年8月15日の敗戦後、北方領土の北胆に位置する占守島に攻めてきたソ連軍を撃退し、日本を守っている。)

 

 

 話が少々脱線したので、軌道修正する。






 そんな外交的大事件があった頃の前後、千畝は一人の日本人との親交を大切にしていた。

 その相手とは井上敏郎。

 一体どんな話題が成されていたのかは記録が残っていないので不明だが、東ヨーロッパの動静に深く関わっていたのは想像に難くない。

 そして彼との会見が終わった直後、杉原千畝公使はリトアニア・カウナス公使館を閉鎖、チェコ総領事館赴任を経てドイツ領ケーニヒスブルク総領事館勤務となった。

 

 ケーニヒスブルク総領事館は旧ドイツ騎士団領(現ロシア飛び地領土)にあり、カウナス領事館よりヴェイヘローヴォ孤児院に近く、井上敏郎に会うには好都合であった。

 だがあの日・・・。

 

 井上敏郎青年がドイツ軍に射殺されたとの報を受け、急ぎ駆け付けた時には彼の葬儀は終了していた。

 直接の射殺原因は井上青年の秘密裏の諜報活動発覚とは無縁であったが、脛に傷持つ身、事を荒立てたくない日本側と、誤射の責任を追及されたくないドイツ側の思惑が一致、ほぼ内輪で簡易葬儀で済ます事で手打ちをしたのだった。

 

 敏郎の仮の墓地で、ひとり手を合わせる千畝を、ヨアンナは遠くから見ていた。

 

 井上敏郎の死の責任は自分に有ると、自責の念に押し潰されたヨアンナ。

 自分さえあの惨劇の現場に駆けつけなければ、敏郎はヨアンナを庇い死なずに済んだのに。

 多くの人に止められたのに聞く耳を持たず、現場に駆けつけたヨアンナ。

 自分の浅はかで身勝手な行動が全ての原因である。

 そう思い込んだヨアンナは、気が狂いそうだった。

 

 来る日も来る日も悲嘆に暮れていたが、千畝が敏郎の墓参りのために来訪したとの知らせを受けた時だけは、ようやく何とかベッドから起き上がり、敏郎を弔う姿を見たいと思った。

 同じ日本人で親友と思われる千畝なら、きっと敏郎の御霊を安らかな場所に誘ってくれる。

 

 ヨアンナは何故かそう思ったのだった。

 何かにすがりたい。

 愛する人を死なせた苦しい気持ちを少しでも軽くできるなら、千畝の弔いを歓迎したい。

 それは無意識の救いを求める本能だったのかもしれない。



 ただ千畝自身は、ポーランド人将校など諜報活動家との関係を、抱えていた家政婦への拷問によりナチスドイツ側に発覚しており、常に監視付の行動制限を受けていた。(彼は関東軍、ソ連、及びナチスドイツからも危険視されていたのだった)

 そうした事情から、大っぴらにイエジキ部隊やその他関係者と接触する事はできず、ヨアンナと言葉を交わす機会も持つことはなかった。



 千畝は1941年11月ルーマニア・ブカレスト公使館に赴任。

 それを契機に、ヨアンナの前から姿を見せることも無くなる。

 

 そしてその後の12月8日、日本の真珠湾攻撃を期に、ワルシャワの日本大使館も閉鎖された。

 

 ロンドンに臨時の居を構えたポーランド亡命政府は、1941年12月11日、日本との秘密裏の関係を表に出すことも無く、日本に宣戦布告する。

 だが国交が断絶した後も、裏で杉原千畝領事とポーランドの将校レシェク・ダシュキェヴィチ少尉が、カウナスとケーニヒスベルクで協力関係を保ち続けた。

 ポーランドの亡命政府が日本に対して行使した宣戦布告は、イギリスなどの連合国とドイツ・イタリアなどの枢軸国に対する見せかけだった。





       

 

         つづく



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