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『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』連載版 第22話「明石元二郎大佐とフィリプ・バクラ」

2023-01-12 05:03:41 | 日記

 ここでヨアンナにとって井上敏郎以上(?)の重要な人物を紹介したい。

 

 フィリプ・バクラ

 

 彼を紹介するにあたって、時間を1941年から数十年 遡《さかのぼ》り、且つ壮大な話になることをご了承願いたい。

 

 彼はポーランド情報将校で階級は少尉。

 フィリプは一度日本を訪問している、あの時代にしては比較的珍しいポーランド人だった。

 

 そのポーランド人のフィリプが何故日本に?

 その謎は当時の世界情勢に於《お》ける日本の国策が強く影響していた。

 

 彼が日本を来訪したのは1926年であるが、彼を秘密裏に招いたのは日本の外務省であった。

 

 ではその日本の外務省が推進する国策とは?

 日本は伝統的に強国ソ連と対峙してきた。

 それも日露戦争以前から。

 日露戦争当時、日本が国力差10倍以上の強国ロシアに勝利するためには、戦争以前の事前準備として情報戦と謀略戦で勝利する事が絶対条件であった。

 そのためにはヨーロッパを舞台に情報戦・謀略戦に勝ち抜ける人物を派遣しなければならない。

 その適任の人物として1902年、明石元二郎大佐が首都ペテルブルクのロシア公使館に公使館付陸軍武官として転任、派遣された。

 前任の田中義一陸軍武官(後の首相)から業務を引き継ぎ、当時からロシア国内の情報収集、及びロシアの反政府分子との接触を試み、工作活動を行う。

 また明石元二郎大佐は、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、ポーランド社会党左右両派ほか、ロシア国内の社会主義政党指導者や民族独立運動指導者などとも会談を行い、連携する関係を構築した。

 その目的は、ロシア支配下の国や地域に於《お》ける反ロシア運動を支援、ロシア国内の反政府勢力と連絡を取りあいロシアを内側から揺さぶるためである。

 

 だが日露戦争勝利後も、依然強大な力を持ち続けるソ連は日本にとって脅威であった。

 そうした事から明石元二郎大佐が退任した後も、日本は引き続き彼が構築した情報・諜報網を維持し続けた。

(余談だが、杉原千畝が諜報組織をいち早く活用できたのも、明石の遺産を生かせたからである)

 

 そして1918年ポーランド独立に際してもこの情報・諜報網を通じ、数々の支援が行われている。

 そうした流れの中、ひとりの青年フィリプ・バクラ少尉が日本に招聘《しょうへい》された。

 と云っても彼は情報将校。

 大っぴらに盛大な歓迎を受けた訳ではなく、秘密裏に外務省の情報局ポーランド担当部署に赴き、ポーランドの国書《密書》を渡し、今後の連携確認等の事務的会談を行ったのだった。



 そんな背景からこの物語は始まる。



 1926年、8月27日、ポーランド軍テストパイロットであるボレスワフ・オルリンスキ大佐は、通信士のフィリプ・バクラ少尉、メカニックのレオナルド・クビャク軍曹とともにワルシャワから東京間10,300kmを飛行するため、晴天の中、一路東へと旅立った。

 

 これはヨーロッパ人の日本への初飛行であった。

 

 一行はモスクワ、ハルピン等を経由しながら九月5日に日本の所沢飛行場に到着し、多くの日本人から熱烈な歓迎を受けている。

 

 ポーランドは、1918年第一次世界大戦終結と共にロシア、ドイツ、オーストリア=ハガンガリー帝国支配から解放され独立、主権を回復したが、驚くべきはその後の技術の発展だった。

 

 特に注目すべきは意外にも航空技術。

 

 ズィグムント・プワフスキという一人の天才航空技術者により、1928年直列エンジンを搭載、全金属製高翼単葉機のP.1を設計している。

 当時世界最高性能を誇る戦闘機であった。

 

 その2年前の日本渡航。

 当時のポーランドの航空技術の高さを証明する画期的な出来事であり、下地である技術の水準の高さを物語っていた。

 

 

 さて、同乗したフィリプ・バクラ少尉。

 彼は盟友ボレスワフ・オルリンスキらとは別行動であった。

 日本で別々に滞在した一週間、どんな思いでいたのだろう?

 

 当時ボレスワフ・オルリンスキ大佐とメカニックのレオナルド・クビャク軍曹は大いに注目された。

 所沢飛行場に着陸した途端、多くの群衆が待ち構え、当時の新聞にも大々的に報道された。

 だがその晴れ舞台に通信士のフィリプ・バクラ少尉の姿はない。

 彼は秘密裏の訪問であったから、その存在は一切 秘匿《ひとく》された。

 

 ボレスワフ・オルリンスキ大佐とメカニックのレオナルド・クビャク軍曹が空港でタラップを降り、多数の報道陣に囲まれてもフィリプ・バクラ少尉ひとり機内に残り姿を見せなかった。

 そして一行が去った後、ひっそり外務省担当官からの出迎えを受けた。

 

 因みにこの大陸間の飛行は、当然のことながら大いに賞賛されるべき偉業である。

 それ故にこの偉業に対し、日本からは勲六等旭日章、フランスからはレジオン・ドヌール勲章が贈られていることからも、如何に大きな出来事だったかを伺《うかが》い知ることができる。

 当然フィリプ以外のふたりが立ち寄る先は人だかりができ、それは見るもの聞くものが総て初めての体験だった。

 眩暈《めまい》がするほど刺激的なのは言うまでもない。

 でもそれは別行動のフィリプ・バクラ少尉とて同様であった。

 

 ヨーロッパ諸国とは正反対の国。

 地政学上もそうだが、価値観、行動様式、建築物に対する思想、料理の伝統など、数え上げたらきりがないほどの違いに満ちた不思議の国。

 

 そもそも何故日本を目指したのか。

 日本とポーランドにはそれ以前からの深い繋がりがあり、互いが特別な国でもあった。

 

 それは戦争や諜報戦での暗躍だけではない、心温まる深い絆がある。

 それは1920年、シベリアのポーランド人孤児たちを日本が救出した出来事。

 それがきっかけで一般国民同士、親密な感情が生まれたのだった。

 

 そうした流れから、彼らの関心はアジアの他のどの地域より興味と魅力に満ち、必然的に当時の空の大冒険の目的地に日本を選ぶ。

 

 そして彼らが予想した通り、いや、期待以上の経験をすることができたのだろう。

 その証拠に、後の彼らの行動には色濃く日本滞在の影響がみられた。

 

 特にフィリプは、飛行前から何度もポーランド孤児の日本での体験を伝え聞き、(諜報のパートナーと云うだけでなく)日本という国に大いに着目していた。

 それ故目的地の選定では、ボレスワフに強く日本行きを進言したのも彼だったほどである。

 そして丁度その時節、日本からの招聘《しょうへい》もこのタイミングで持ち上がっていた。

 

 運命の渦に引き込まれるフィリプ少尉。

 その時の日本体験こそが、その後の彼の思考と行動に深く影響する事となる。

 

 帰国後彼はポーランド北部グダニスクからおよそ200km東に位置する軍の諜報施設に赴任し、行動の活動拠点とした。

 そうした地理的条件も関係し、フィリプ少尉は施設にほど近いポーランド孤児たちが帰国後過ごしたバルト海沿岸のヴェイローヴォ孤児院に足繁く通うようになる。

 日本から帰還した同胞の孤児たち。

 孤児たちはヴェイローヴォ孤児院を中心にしたメンバーで極東青年会を結成、日本との深い関係を維持していた。

 そうした理由からフィリプ少尉は興味と親近感と諜報活動のいち拠点として、足繁く通っていた。

 

 だが時が経ち訪問を重ねるにつれ、次第に彼の目的は変質していった。

 

 それは一人の少女の存在。

 

 初めて出会った時彼は20代前半、彼女はフィリプより一回り以上年下の現在の日本でいう小学6年生くらいだったが、その時すでにその夢見るような表情と、会う人に目の前がパッと明るくなったような気持ちにさせる快活さと美貌で人目につく少女だった。

 更に時が経ち、訪問回数が増えるに従い、彼女の成長がその魅力を増してきた。

 そしていつしか彼は大人なった彼女を意識し、当然のように恋をするようになっていた。

 

 彼女の名はヨアンナ




     つづく

 



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