次男『早次』が誕生したのは翌年3月であった。
その頃には兄夫婦の子供たちも加わり、毎日がお祭り騒ぎのような賑わいが百合子の実家にはあった。
百合子自身にとって、産前産後の実家暮らしが長期にわたって続くより、我が家と実家を行ったりたり、来たりという生活が一番良いようであった。
そんな暮らしができるのも、実家の近くに居を構えた者のお手軽な特権であろう。
もちろんそんな環境を支えてきたのは、おアキさんの獅子奮迅の活躍があったからではあるが。
「おアキさん、どうだ?」
ハァハァ言いながら僕が駆けつけると
「旦那様、お疲れ様でございます。まだでございます」
と、頭を下げ、とり澄まして云うと、
「秀則さん、お早い御着きで。」と百合子の母、ハルが応える。
幼い秀彦が僕に気がつき、
「お父さん~!」と走り寄る。秀彦にとって初の弟か妹の誕生。
だがどれだけ理解しているだろう?僕が「秀彦、いい子でいたかい?」と問うと
「ウン!いい子でいたよ!お父さん。」と異様なほどの元気さで応える。
分娩室前の廊下なのに、大きな声で報告してきた秀彦に、僕が思わず「シ―!」と言うが早いか、ドアの向こうから「オギャ~!」と元気の良い声がしてくる。
暫くして助産婦さんが出てきて一言。
「元気な男の子ですよ」と笑顔で報告してきた。
「秀則さんはいつも丁度良いタイミングで来られるのですね。」と姉有紀子が感心したように言う。
その傍らを有紀子の子供たちがワラワラと戯れている。
しまった!子供達へのお土産のお菓子を買ってくるのだった!
慌てて新潟出張から帰って来たので、そこまで気が回らない。
だが、今は我が子の誕生でそれどころではない。その辺の事情は察して!
「姉さん、済みません」とだけ言って詫びながら、新生児の待つ隣の部屋へ一同、大移動した。
この病院も秀彦の時に次いで二度目。
あの時は初めてだったので大層緊張したが、今回は少しは慣れた気がする。とはいっても、やはり無事で産まれるか?健康で産まれるか?心配はつき纏う。
母子共に無事健康な状態で出産を乗り切ったのを確かめると
「百合子、ご苦労さん。」とねぎらう。(あぁ、秀彦の時以来、二度目だな。)と思い返し百合子の手を握った。
「あなた、男の子よ。」
「ウン、ウン、良かった、良かった!」
そう言って二人だけの世界に浸った。
今日の主役の赤ちゃんはもう寝ているが、その寝顔をその他一同が飽きずにいつまでも眺めている。
その日、新生児室の窓から見える東京の空を、夕焼けが赤く染めていた。
出産の一大イベントを終え、百合子と赤ちゃんが退院し我が家に帰宅、落ち着いた頃に僕の元に職場から新たな辞令が届く。
在外研究員を任ぜられ、一年間の海外視察・外遊に行ってこいとの命令である。
一年間!!エライこっちゃ!
慌しく次男を『早次』と命名するが早いか、渡航準備に取り掛かる。
ルートは南アフリカ、ヨーロッパ各国、南米、北米の順番。
もちろん僕ひとりの単独渡航ではなく、鉄道局選りすぐりの選抜メンバーから僕の他、技術畑の島村秀雄、松平仁、僕と同じ組織企画畑から三木正之の4人、そして随行員として内閣企画局より派遣された3人を加え、合計7人の陣容であった。
そのうち企画局からの派遣メンバーは南アフリカを経って以降、各地で人員が交代、入れ替わる事になっている。
その理由は企画局派遣メンバーと云っても、その実は世界各地に配置された外交員、及び特務工作員等で構成されており、いわば視察先での現地政府・鉄道関係者との橋渡し、調整役であったから。
せっかく世界各地を視察に行っても、現地責任者たちに接見できなかったり、相手にされないようでは行く意味がない。
確実に現地政府要人と鉄道関係者の協力を得られるよう、下準備と根回しが必要不可欠なのだ。
だから各地に配置された外務省関係者等への要請が行われ、各国関係者の了承を得なければならない。
その橋渡し役が各地担当の企画局派遣メンバーなのだ。
壮行会を経て渡航初日は、お互いギクシャクした間柄であったが、2日、3日も経つとだんだん気心も知れ、他愛ない世間話をするようになる。
船旅はのんびりした長旅なのだから。
まずは南アフリカを目指す。
マラッカ海峡に達する頃にはお互いが打ち解け、晩餐の酒が入るとそれぞれの得意分野の談議が始まる。
だがそうは云っても周囲の客たちは皆外国人。
この客船にはどんな経歴の人物が乗船しているか分からない。
実際僕らの中の企画局派遣メンバーたちの本当の身分は外務省職員ではなく特務機関員なのかもしれないし。
自分たちも外国のスパイに監視されている可能性もあるので、決して油断はできない。
別に僕たちは秘密の任務を負っている訳ではないが、世界情勢そのものが弱肉強食の緊迫した状況にある。
外遊と云っても単なる物見遊山気分でいては、いつ足元をすくわれてもおかしくない。
他国の視察とは、そうした緊張感も無ければ成り立たないのだ。
特に僕たち日本人は、白人社会で差別される側の黄色人種なのだから。
そうは云っても緊張感をほぐす人畜無害な世間話くらいなら問題は無いだろう。
今後はそうした経緯を踏まえ、お互いがワザと軽く交わす会話である事を理解していて欲しい。
「もう赤道が近いのか?さすがに暑いな~」
「マラッカに着いたらどうする?皆で上陸して羽を伸ばすか?」
「それもいいかもな。シンガポールなら繰り出せるような場所がいくつもあるだろうから。」
「でも島村さんや松平さんには退屈だろ?見るべき鉄道がある訳じゃないし。」
「別に!機関車が無くても歓楽街があれば気晴らしくらいにはなるだろ?」
「要は酒と女と食事か?どうでも良いが、羽目を外し過ぎるなよ。程々にしておかないと現地人に足元を掬われるかも知れないからな。」
「酒と食はともかく、女はダメだろ?立場をわきまえておかないと。
シンガポールは英国領だし。紳士の国に行ったら、紳士らしくしないとな。」
「紳士ねぇ~、このメンバーじゃ、乗客の中で一番似つかわしくないかも。」
「・・・・そうだな・・・。」
上流階級ばかりの外国人乗客に囲まれていると、容姿と立ち居振る舞いに自信が持てなくなるのは、外国慣れしていない日本人の悪い癖。
日本国内では、あれだけ颯爽と肩を切って歩いているエリートたちなのに。
もっと自信をもって生きなさい。
国を背負って立っているのだから。
それにしてもこの暑さよ!一体いつまで続くのか?
先が思いやられるな。
そうしてダレた船上暮らしをしていると、いつの間にかシンガポールを出航し、カルカッタを経てセイロン(スリランカ)、インド洋に出る。
マダガスカルなどいくつもの港を寄港し、第一目的地の南アフリカケープタウンに到着。
南アフリカ鉄道を視察した。
ここでの見るべき観点は、鉱山から採掘されたダイヤモンド原石をどのように鉄道輸送するのか?
セキュリティシステムをしっかり学ばなければならない。
だが南アフリカは当時有名なアパルトヘイトの国。
黒人は勿論、黄色人種も差別される国であった。
トイレも飲食も鉄道も厳しく制限されたし。
長居は無用。
ここで企画局メンバーが交代し新たな3人が加わる。
ケープタウンに戻り船で北上、一路ヨーロッパを目指した。
赤道、モロッコを経てロンドンに到着。
ついに鉄道発祥の地に辿り着いた。
当然イギリスの鉄道をくまなく回り、特にマンチェスター~リバプール、ストックトン~ダーリントン間(初の実用鉄道が稼働した路線)等を見て回る。
とりわけ島村と松平は、メカニック開発エンジニアとして興奮しながら蒸気機関車を見学していった。
イギリスは鉄道もさることながら、ここに船で到着するまで寄港した港の殆どはイギリス領であり、イギリス風の食事や風習が息づいていた。
さすがイギリス!
大映英国の威容を肌で感じた。
そして同時に黄色人種への差別感も。
次にオランダアムステルダム経由でドイツに入り、最先端のドイツ鉄道を視察する。
機関車の仕組みもさることながら、先進的な鉄道システム全体が参考になると視察メンバーの誰もが思った。
但し、ここでの詳しい技術的・先進的な専門知識を紹介するのは止めておく。
知りたい人はネット等で検索してみて欲しい。
ただ言えるのは、ドイツに息づく徒弟制度が随所に行き渡り、鉄道システム全体が高度な水準で運営されている事。
具体的に目指すべき鉄道システムとして、参考にすべき点がたくさんあったと言っておこう。
更にチェコ、ポーランドも一応押さえ、次にイタリア、フランスも巡る。
何故か?鉄道のみならず、ヨーロッパ全体の交通システム自体が産業革命に出遅れた日本にとって参考になるから。
古くから馬車交通手段が発達し、やがて馬車鉄道~蒸気機関への移行がどのように進められたのか?今後の日本の発展に参考とすべき点が多々あるのだ。
こうしてヨーロッパを巡った後、マルセイユから南米アルゼンチンのブエノスアイレスへ向かう。
当時のアルゼンチンは世界第5位の経済大国であった時もある。
南米随一の先進国であったのだ。
ヨーロッパとも違うスペイン文化が息づく国。隣国ブラジルの開拓の過程を含め、鉄道敷設の状況を見定めておくのも大切な見聞である。
南米を北上し、メキシコから更にニューヨークに向かう。
前号でも述べているが、当時のアメリカは黒人差別と日本人排斥が最高潮にあった。
あの山本五十六がアメリカ滞在武官として居住経験があるにも関わらず、日米開戦にあれほどこだわり真珠湾を攻撃した原因もここにある。
それ程差別経験で悔しい想いをしているからなのだ。
自分の力と裁量で何とかアメリカを打ち負かしてやりたい。
そうした個人的な想いが、国の方針を破ってまで固執した原因であると推察できる。
アメリカの長距離鉄道。
それは砂漠をひた走り、ロッキー山脈を越え、西海岸ロスアンゼルスまで続く横断鉄道。
だがそれ以外、特に参考になる先進技術は見当たらなかった。
実際、後に自動車産業に押され、アメリカ横断鉄道は徐々に衰退していった。
こうしてあまり居心地の良い印象を持つことなく、視察メンバー一行は帰国の途に就く。
太平洋をハワイ経由で横浜港に辿り着く頃には、いっぱしの国際人の風格(?)を身に着けたように見えるが、その実態はどうだろう?
鉄道局に赴いて使命を果たし無事帰国の報告もそこそこに、銘々がスーツケースいっぱいの荷物と土産を引きずり、一年ぶりの懐かしい我が家に帰宅する。
「ただいま。」
玄関から続く廊下の奥の壁から半分顔を出しこっちをじっと見る秀彦。
そしてその顔のすぐ下には不思議そうな表情のあどけない早次。
「どうした?父さんの顔、忘れたか?」
「父さ~ん!」秀彦が堰を切ったように駆け寄る。
早次は当然覚えていないが、兄の秀彦に倣いトコトコと駆け寄ってきてくれた。
「秀彦!早次!大きくなったなぁ!」
「あなた!ようご無事で。
・・・お帰りなさいませ!」
懐かしく愛おしい百合子がユックリ出迎えてくれた。
「今日帰ると事前に手紙を書いておいたけど、届きましたか?」
「いいえ、まだ届いていません。」
「エッ!まだ届いていない?ロスを出発する前に書いて出しているのに。
じゃぁ、僕が帰ったのは突然だったんだね?」
「そういう事になります。」
「へぇー、とんだサプライズになったんだね。」
「そうですね。でもこんな嬉しいサプライズなら歓迎ですわ。」
心からの笑顔で百合子はそう言ってくれた。
「そうか、百合子はサプライズが好きだったんだ。意外だね。
それじゃ、これから毎日サプライズの演出をしてあげようか?」
「バカ!」
そう小声で言って僕に抱き着き、そっと顔を埋める百合子であった。
「よせよ、子供達が見てるだろ。」
と、口では言ってみた。
つづく