高校卒業後、アダムはグダニスク工科大学へと進んだ。
地元の大学と云う事もあり、電話局の交換手として働くエミリアとは順調に交際は続いていた。
グダニスクの学生街はふたりにとって数々の愛の思い出が今も息づいている。
ある日のエミリアの日記
思い出
あの人の大学前で喧嘩した。
泣きながら走った石畳。
仲直り。
一枚のコートを二人で羽織り、
寒くて震えながら歩く帰り道。
裸電球が揺れるあの人の部屋。
若い二人に夕暮れの活気と周囲の人々の好意。
あの人が好む詩を読んでくれた陽だまりの公園。
傷つく度優しさを知り、大事な思い出ほど鮮やかに残る。
ふたりがかけがえの無い青春を過ごしたこの街はそういうところ。
改めてそう思うふたりであった。
1967年無事卒業後、アダムはグダニスク造船所に技師として就職、開発部門の部署に配属された。
その先にはレフ・ヴァウェンサという気の良い先輩の青年がおり、立場は違うが仕事のパートナーとして接する事が多く気が合う職場の仲間としてお互いを認識していた。
レフ?何故か懐かしい名前に思える。
遠い昔、母がお世話になった? アダムは直接知らんけど。
* 注
福田会時代の孤児担当の舎監がレフと呼ばれていたっけ。
覚えてますか?あの魚のような目の人。単なる偶然だよね?
レフは大卒のアダムとは違い、学歴が無いたたき上げの人だった。
苦労人 故人懐っこく且つ、人間や社会の動きを嗅ぎ分ける鋭い洞察力にたけている人である。
そしてアダムにとって兄のような温かい抱擁力のある相棒。職場での立場を超え、アダムと議論を交わす親友であった。
アダムがエミリアを恋人として初めて紹介したときも、旧知の中の親友のように、笑顔で彼女を受け入れてくれた。
彼らの青春時代は、信頼と共感と競い合う同世代の仲間意識がもたらした、何物にも変え難い輝ける時代と云える。
彼らの議論を傍らで黙って聞くエミリアにとって、社会学的思考の影響を吸収できる良い先生であった。
世の中で起こる社会的事象を見て、自分なりに考えを消化させ、自分独自の考えを構築する方法をこの時身に着ける。
つまり例えば、ある事象を目の前にして、正確な情報を得、それに対しどう思い対処すべきか考えた。
自分の価値観とどう整合性を持たせるか?
それができない時、自分はどうすべきか?
それらを考える癖をつけ、自分の持つべきスタンスを構築しようとした。
そんなふたりの主張を聞く公平な傍観者として、エミリアはアダムとヴァウェンサの意見が対立したとき、冷静な調停人の立場でコーヒーを勧め、ふたりを諭す緩衝材になっていた。
時は流れ、翌年東欧社会主義陣営の限定された中での自由の空気が消し飛ぶ大事件が起きる。
1968年チェコスロバキアで発生した動乱『プラハの春』だった。
プラハの春
事の発端は、スターリン路線が強く推進する共産主義的社会主義の国家運営の手法で、忠実に締め付け政策を推進していたノヴォトニー第一書記が、経済の停滞を招き1968年1月に失脚。
改革派のドプチェクが第一書記に就任した。
ドプチェクは『人間の顔をした社会主義』を標榜し、言論の自由や市場原理を導入、改革を断行した。
チェコスロバキア共産党は4月の行動綱領で同路線を承認、知識人は6月『二千語宣言』を発表、自由化支持を表明した。
そんな衛星国の動きにソ連は支配維持の危機を感じ、弾圧を断行する。
その予想される危機とは?
チェコスロバキアが自由主義を標榜し共産圏から離脱、その影響が他の東欧諸国へ波及する恐れがある。
つまりソ連を中心とした共産圏の崩壊を意味するのだ。
当然盟主のソ連は承伏できない。
8月20日ワルシャワ条約機構軍(ソ連が主力で、東ドイツ軍が付き従う)がプラハに侵攻、お得意の容赦ない武力弾圧を行った。
ドプチェクは解任され、改革が終息。
改革派は追放され、ソ連と関係改善が図られた。
結果ドプチェクの改革はソ連の弾圧で失敗に終わり、改革前に戻った。
国民の困窮と不満は、ソ連の都合で圧殺されたのだ。
でもそれで終わりではなかった。
1970年、自由の圧殺による閉塞感と賃金に不満を持つ労働者が立ち上がり、アダム達が居るポーランドのグダニスクで「グダニスク暴動」が起きた。
グダニスク暴動
民衆の不満に蓋をして、根本的な解決がある訳が無い。
グダニスクの労働者たちの不満が、いつか爆発するのは当然であった。
1970年12月14日、グダニスクを中心にしたバルト海沿岸都市で労働者がストを決行、暴動を起こしてポーランド統一労働者党支部に放火した。
それを受け政府が軍隊を投入、多数の死者を出しながらも鎮圧を図った。
でも完全鎮圧とはならず、バルト海沿岸都市から内陸部の都市にストを構える動きが波及し、不穏な空気が流れた。
それを受け12月20日、ウワディスワフ・ゴウムカ統一労働者党第一書記辞任。 後任にエドワルド・ギエレクが就任、値上げを撤回、労働者との(表向きの)対話を約束し、ようやく終息を見た。
そんなうわべだけの当局の思惑を見透かし、アダムとレフは自分たちは今後どうするべきか悩んだ。
彼らは当時の情勢にずるずると引き込まれていく。
だが、暴動では根本的な問題解決になり得ない。
二人は暴動には反対の立場の意見を持っている。
ではどうすれば良い?
それには万人が信頼できるしっかりした労働者の組織を立ち上げ、理論武装のため各々が学習し、社会の支持を得られるよう努力すべきだとの結論に達した。
共産主義や社会主義は、労働者主体の社会経済体制であると云いながら、その実態は自由が圧殺され人権は守られない。
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※共産主義と社会主義とは?
共産主義とは: 国民が一定の条件の範囲内で平等に生産労働に従事し、平等に分配を受ける制度。(原始共産制)
社会主義とは: 共産主義の前段階。共産主義に移行するまでの政治的、経済分配的準備段階。
実際には共産主義者の特権(支配)階級が形成され、(それ以外の)国民への極端な思想統制の元、武力に基づく人民管理が成された。
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それの何処に理想があるか?
国民の誰が喜ぶか?
そんなの私たちが本当に求める社会ではない!
自由とは、自らの責任において自らを管理し、自らの理想を追い求めるもの。
それも独りよがりではなく、より多くの人々が知恵を出し合い力を出し合い、喜びを分かち合うもの。
アダムとレフは完全に意見が一致した。
彼らが具体的な活動を推し進めるにつれ、当局の眼が厳しさを増してきた。
エミリアはふたりの良き理解者であったが、学生時代の時のように再び弾圧の危機に対処できるほど社会は甘くなかった。
身の回りに弾圧の危険がせまり、母ヨアンナはわが子の運命に不安を感じ初めていた。
父フィリプのように殺されたらどうしよう?
幾度となくアダムに母の不安を伝え、慎重と自制を求めた。
しかし決して主義を捨てろとは口にしなかった。
何故ならアダムは自慢の息子であり、母の太陽であり、ポーランド人の誇りを守ろうとする英雄だから。
自ら教え、アダムの物事の考えに決定的な影響を与えた責任もある。
フィリプが命がけで掴もうとした誇りと自由を是非息子に成就させたかった。
自由の圧殺は新たな反発も生む。
次第に社会(共産)主義体制維持に疲弊が見え、ソ連の援助と保障に陰りが出てくる。
その流れからポーランドの経済も次第に低迷する。
社会不安は増大し、とうとう公安が暴挙に出た。
レフとアダムを拘束したのだ。
一年後アダムが先に釈放された。
彼は一年も刑に服さなければならないほどの罪を犯したというのか?
そもそもどんな罪で罰せれらるのか?
無事の帰還を待ちわびていたエミリア。
出所したアダムに夢中で駆け寄り抱きついた。
「ああ、アダム!・・・アダム、アダム!!」
それ以上の言葉が出ない。
その必要もない。
辛い独房生活でやせ細ったアダムは、エミリアの涙を優しく指で拭い、両手で頬を包み込みながら、長い長いキスをした。
「心配かけてすまない。それに、こんなに待たせてゴメン。
突然だがエミリア、結婚しよう。」
アダムは一年も拘留され、待たせたエミリアに申し訳ないと自分を責めた。
エミリアがどんなに大切か身に沁みて感じ、永遠の愛を捧げる決心がついたのだ。
こんな場面で唐突なプロポーズ? 本気?
嘘じゃないのね?
エミリアは泣き笑いしながら、
「アダム、その伸びたお髭がチクチク痛いわ。
せめて結婚式には、ちゃんときれいに剃ってね。」
それが彼女の答えだった。
プロポーズを受けてアダムとエミリア両人の母、ヨアンナとエヴァに報告した。
もちろん喜びに満ちた反応が返ってくる。
「アダムは今まで刑務所に居たのに、一体いつプロポーズしたの?
出所したらお祝いねって相談していたのに、出てすぐ結婚宣言?
あなたたちには油断も隙も無いのね。
お祝い会場の垂れ幕の文字を『出所祝い』から『結婚祝い』に変えなきゃね。」
「えっ?お祝い会場の垂れ幕?そんな大げさな用意をしてくれていたの?
嘘でしょ!」
「嘘よ。こんな忙しい時に、派手な準備をしているわけないじゃない。
冗談よ。」
お祝い会場には想像以上に大勢の参加者たちと、お祝いの垂れ幕に『アダム君出所おめでとう』と大きく派手に書かれていた。
嘘と言っていたのは嘘だった。
お母さん達って・・・(^^;
教会の鐘が鳴り響くころ、レフが出所した。
出迎える二人の姿を見て驚く。
ん?白いタキシードとウエディングドレス?
「その姿、もしかして結婚か?
お前たちは・・・。驚かしてくれるじゃないか!
その姿のままでここまでやって来たなんて。」
(他人にじろじろ見られて恥ずかしくなかったか?)そう思いながら、
「これは幸先良い。明るい未来の幕開けか?」
そう言って心から喜んでくれた。
待ち焦がれた工場の仲間たちは、アダムに次いでお待ちかねのレフが揃い、彼らの出所を感極まって大歓迎した。
彼らにとってアダムとレフは唯一無二の指導者なのだ。
造船所の労働者たちは、どんなに弾圧されても彼らを中心に決して怯まず、不撓不屈の精神を持って巨大な権力と戦おうという気構えがその時生まれた。
アダムは今こそ祖国ポーランドの自主独立の時であると自分を奮い立たせる。
母が植え付けた明るい未来はアダムの希望である。
しかし母はもうあまり見届ける時間がなかった。
アダムが拘束され、一年もの間心配し続けていたのだ。
幼い頃からたくさんの弾圧と、その犠牲者たちを見てきたヨアンナ。
残酷な昔のビジョンが毎夜襲う。
その心労は心と身体を蝕んだ。
つづく