せっかちな人だった

2016年06月08日 | おとうちゃん

医師の予想では

正月頃の予定だった

癌の予定だった

 

予定通りに人生はすすまない

 

「今日は調子がいいから大丈夫」

父は母にゲートボールに行くよう勧めた

母は携帯電話を持たずにでかけた

 

12時ころ弟から、父が緊急搬送されたと連絡があった

 

調子がいいから、午前中 庭木の剪定をしていた

汗をかいた

お風呂を沸かし、一人で入った

 

2階にいた、義妹さんが宅急便を受け取るついでに

父の様子を見に来たのは11時ころ

父は湯船でなくなっていた

 

救急車を呼んだ

いつもの病院をお願いしたが

救命救急センターに運ばれた

医師から「30分で宣告」と言われ

義妹から電話がかかってきた

「私が宣告をうけていいでしょうか?」

「お願いします」と言った

 

旦那に帰宅してもらい、息子も戻り、実家に行った

母に電話をかけ続け、ようやくつながった

母は家の前で、ご近所さんと待っていた

 

義妹さんは、救急車に乗る前に、お隣に鍵を渡し

弟はお隣に電話をかけていた

母が家に戻るのをずっと待っていてくれた

母はもう知っていた

 

甥っ子と姪っ子がまだ学校

息子に留守番をさせ、病院に向かった

 

 

父はもう、霊安室にいた

病院に運ばれたときは、すでに心肺停止

変死扱いになり、警察がきていた

可愛そうに、義妹は1時間以上、尋問をうけていた

「形だけです」というが、しつこい

 

可愛そうに、父は警察に運ばれた

検死をしないと、帰れない

警察で一泊することになった

父は、小汚い、警察車両で病院をでた

 

父は、まだ温かく、やわらかかった

苦悶の表情はなく、おだやかだった

薬による、むくみもなくなっていた

苦しんだ様子はなかった

 

 

 

正月くらいの予定だった

癌で死ぬ予定だった

 

余命は8か月と聞いていた

 

3月もたなかった

 

 

実家に戻って、すぐ 警察が現場検証にきた

可愛そうに、義妹さん、また1時間以上 尋問された

 

「病気がわかってから、離れたことがないのに。なんで一人でお風呂にはいったんだろう」

母はないていた

 

「そいう人なんだよ。せっかちだから」

私も泣いた

 

実感がわかず、足元が宙に浮いている

実家に泊まる準備をして、 息子の制服にアイロンをかけて

数日家を空けてもいいように掃除をして

 

安定剤と眠剤を飲んだが

自分がここにいて、どこにいるのかわからない

 

私の心も、お父ちゃんの魂とおなじく、中有をさまよっている

 

もっとしっかりしないと、母を支えられない

 

 

全てが、あやふやで、

 

 

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今日は  3GB だった

2016年05月05日 | おとうちゃん

 

 

車なら30分

電車・バス・徒歩 だと 1時間以上かかるので

毎日、父の病院に行くことができなかった

寝る前にしか飲まないと決めていたロキソニン

出かける前に飲まないと、足裏の痛みがねぇ・・・

 

父は自力で体を起こし、座っていられるようになった

車椅子介助が必要だけど、トイレのドアから便座まで歩くようになった

話しの辻褄があうようになった

五分がゆになり、点滴が 1日1本になった

 

 

2日前まで粗相しても平気だった

着替えが足りないと、母をしかりつけていた

それが、突然変わった

 

その時の話をしてくれた

粗相をして、若い看護師さんの手間をとらせて、お父ちゃん悲しくなっちゃたんだよ

でな。目をつぶっていたら、今自分がどこにいるのか、わからなくなって、怖くなったんだよ。

もう1回目をつぶって、一生懸命思い出そうして、自分が入院していて、ここは病院のベッドだと

気が付いたんだ

 

抗がん剤が抜けて、意識が明瞭になったということなのだろうか

母の話によると、その日から、父は元に戻り、病人らしさが急速に消えていったという

もう、自分の葬儀委員長の心配をする という 思考もなくなった

 

「退院したら介護になると覚悟してたけど、これなら大丈夫」

母は嬉しそうだったが、治ったという意味での退院ではないこともわかっている

 

 

今日は2爺がきた 3GBの会 盛り上がる

現、町会長と、副会長

現役なのでちょっとお若い 70代半ば

地域に貢献してきた父には、お見舞い客が多い

(噂が広まりやすいともいえる)

 

昨日も2爺  3GBで、同窓会の話し合いをしたらしい

60人いた同窓生も、20名程度になり、自身の病気や配偶者の介護で

参加人数は、一桁になった

 

 

 

バス停から病院まで  15分くらい 歩く

半分は土手

 

 

 

 

ここで

四つ葉のクローバー 見つけた ♪

 

 

 

挽物職人 かっつんさん  の  木皿

 

塗り、2回目終了しました

時間がかかって ごめんなさい

 

 

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4GB

2016年05月03日 | おとうちゃん

4ギガバイトとは読まず

 

4爺 1婆 と 読む

 

昼前から、夕方まで 父の病室にいた

母の手伝いがしたかった

父は、頸椎ヘルニアの手術と、前立腺がんの手術をした

あの時は「早く治りたい」という気力があり

歩いてもいい という、許可が下りると、病院の廊下を一生懸命歩いてた

抗がん剤が抜け、悪心がなくなり、食事がとれるようになっても、父は歩こうとしない

トイレのたびに、看護師さんを呼び、車椅子に乗り、夜は紙パンツをはかされている

「もう、歩けるでしょう」母が言っても歩こうとせず

ブツブツの何か言っている

治らない病気になってしまい、がんばろうという気力がない

 

退院日は決まっているが、元に戻るとは思えなかった

介護申請が終わり。ケアマネさんがきたら、退院日までに、介護ベッドが届くことになっている

 

介護ベッドを受け入れる   とは、思わなかった

紙パンツを受け入れる    とも、思わなかった

 

体の中の悪い細胞が、父の気力と筋肉を奪っていく

 

2時ころ、老人会 元町会長OG会方が、3人お見舞いに来てくれた

3人とも、80代

キチンとスーツを着て、ネクタイをしていた

生存していて、出歩ける、同性代   3人

 

 

赤ん坊のように、母に我儘を言う、父だったが、3爺のお見舞いのときだけ

元に戻った

 

1爺 「俺も、腎不全で、週3回 透析だよ」

2爺 「俺は胃がんと、前立腺がん。この病院に月一回通ってるんだ」

3爺 「俺も、肺がんと、膀胱がん。女子医大に通っている」

1婆の母は、どこも悪くない

4爺 父

   「俺のはちょっと場所が悪くてね。治らないみたいだ」

3爺 「みんな、この年じゃ治らねぇよ」

 

その後、楽しかった、時代の話で盛り上がっていた

昭和から平成に変わったころ、みなさん、先の爺が鬼籍にはいり、当主となり

町会活動を仕切っていた、50代のころ

 

みなさん耳が遠いので、声が大きい

ロビーに響き渡る、話し声と笑い声

 

3爺も無理してきてくださり、父も無理している

 

3爺がお帰りになったあと、1爺の父はすっかり疲れてしまい、機嫌が悪くなる

1婆の母と、1おばさん の私に

 

「あれじゃ。しょうがねぇ・・・・。俺の葬儀委員長は誰がするんだ」

3爺に葬儀委員長は頼めないと言い出し、心配し始めた

「そんなことは、今心配することではないよ」

 

たしなめても聞かない

 

病院の雰囲気というか、風邪が吹かない、重い空気が悪いのか

どんどん病人になっていく

 

抗がん剤の副作用が厳しくて入院したはずだったが

風邪を引いていないのに、熱も下がらない

「抗がん剤が抜ければ、元に戻る」と思っていたが

 

なかなか厳しい。。。。。

 

 

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お見舞い その1

2016年05月01日 | おとうちゃん

連休の初日に、息子を連れて 父の病院にいきました

実家に寄って

 

 

 

 

つつじ  

 

 

 

なんか 花 ?

農業をしていただけあって

花や家庭菜園がとても上手な父

キュウリやナスの準備もしてありましたが、植えるところまでできませんでした

 

ナースステーション近くの個室から大部屋に移動したのは良い知らせ

意識もはっきりして、会話もできるようになった

 

弟の車でみんなで行きいました

沖縄組集合です♪

弟に頼んで、柴又帝釈天に寄ってもらいました

 

子どもの頃は親に内緒で友達とぶらぶら来ていました

江戸川の河川敷を歩いていると、なんとなくついてしまいます

 

甥姪は、徒歩遠足コース

私は何年振りだろう?

コインパーキングに車を止めてぞろぞろ歩いていたら

んんん ?「この感じ・・・デジャブ・・・」

弟に聞くと

「そうそう、この道歩いた。俺らの結納の時。川甚 のあと」

あの時は義妹さんの、叔父夫婦も来ていて、ぞろぞろ歩いたっけ

息子は 初めて

 

 

 

 

 

なんとなく、参拝して

 

なんとなく、歩いて・・・・・・・

 

 

 

病院に行った

母と弟で病室に行って、ロビーに連れてきてもらった

車いすで父はロビーにやってきて

私が「沖縄組全員集合だよ」

と、言ったら、父は泣き出した

「あれあれ、みんな来てくれた」

 

父は10歳くらい年をとってしまったように見えた

薬のせいで、皮膚がねぇ・・・・・

 

父はかわるがわる、孫に声をかけて、学校のことを聞いて笑っていた

沖縄の思い出話しに花が咲いた

 

毎日、自転車で病院通う母に、電動自転車を買うようにと話していた

 

点滴の他に、朝晩、黄色い点滴を1時間かけて入れている

父はこれを「抗がん剤」だと言っていた

母は、飲み薬であんなに苦しんだのに、すぐ、家族の相談なしに 抗がん剤を入れるはずがない

と、言う

父は、ずっと微熱が続いていて、なかなか下がらない

抗生剤じゃないかと思う

黄色い点滴には、私も覚えがある

「菌をやっけるお薬です」という説明を聞き間違えたのではないか

母と電話で話をしていた

「抗がん剤だ」言い切る父を、否定してはいけない

 

甥・姪は 両親と同居しているが、父がガタガタを悪化していった

先週の土日、下に降りてくるなと言われていた

久しぶりに、会う

おじいちゃんの容貌の変化や、車いすに少し怖がっていた

 

父をベッドに戻すとき、息子が、手伝った

何しろ力が強いので、かるがるとベッドに横にならせた

病人用のスリッパを脱がせ、足を乗せ、布団をかけた

 

翌日、母から電話があった

「おとうちゃん 喜んでたよ Gは無口だけど優しいって。普通あのくらいの年ごろの子は

怖がったり、気味悪がったりするのが普通なのに、Gは怖がらずに、おとうちゃんの体を触ったって・・・  あれなら、あんたの老後も安心だって」

 

 

 

お父ちゃん、もう旦那の事は信用していないのですが

息子が成長したので、いくらか安心してくれたようです

 

 

さて、これから 父に会いに行きます

実家に通うより、病院にいてくれた方が

嫁に出た、私は会いに行きやすいです

 

でも、弟夫婦とは、仲良しです

仲良しのままでいるためにも

遠慮しなくてはなりません

 

 

 

 

 

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再入院

2016年04月27日 | おとうちゃん

 

 

ここ数日、薬の副作用でお父ちゃんは

飲めない

食べられない

足元がふらついて、歩けない

気持ち悪いから、目を開けられない

考えることができない

失禁で紙パンツをはかなくてはならない

紙パンツになったことに気が付かない

 

全身に湿疹・口内炎などの症状がでて

母が病院に行かせようとしていた

(辛かったら、いつ来てもいいと、医師に言われていた)

 

でも、病院に行こうとしない父

抗がん剤が効いているから 辛いのは当たり前

病院に行ったら、抗がん剤を止められてしまう

病院に行ったら戻ってこれない

なにより、病院に行くのがつらい

 

火曜日の朝

午前中の家事を済まして

今日は随分天気がいい 暑くなるかな?

 

そして 父が水を飲めていないことを思い出し、脱水が心配になった

電話した

「飲めてる?飲めてないなら、病院で点滴をした方がいいよ」

「病院に行こうって言っても、お父ちゃん言うこと聞かないの」

父に代わってもらった

蚊の鳴くような声で、一言

    よくねんだ(よくないんだ)

お父ちゃん、病院で点滴するとよくなるよ

    そだな・・・・・いこかな・・・・

その声を聞いた母が、病院に電話していいか尋ねている声がした

 

続けて

「お水飲めないんでしょう?今日は暑いから、脱水して別の病気になってしまうよ」

 

・・・・・・・  だめだ・・・・・わかんねぇ・・・・・

 

父は、会話が理解できず、電話を放り出す音がした

しばらく、聞いていた。母が病院にいく支度を始め、父になにか話しているようだった

そのまま電話を切った

 

父が病気になってから、仕事中も携帯を腰にぶら下げていた

その日に限って、ロッカーに放り込んでいた

仕事が終わって、すぐ携帯をみると

義妹から ライン

母から着信が何度もはいっていた

 

 

その場で電話をした

母は家に戻っていた

父は、2週間の入院になった

再検査をして、体調を調べ、その後の治療を考える とのことだった

正直ホッとした

 

あのような状態で家にいたら、違う何かで、病気になってしまう。怪我をしてしまう

 

「点滴ってすごいね」母が驚いていた

30分くらいで、父の声に力が出て、目を開けられるようになり

思考できるようにもなり、入院書類を読めるようになった  という

 

父にとっては残念な気持ちかもしれないけど

母が楽になり(深夜のトイレが大変だった)

父の体調がよくなり(リハビリの予定も入院中にある)

なにより、みんな安心できる

 

退院日の記載があるのを見て、母が嬉しそうだった

「医者だもん、ちゃんとわかるんだね」 と、言っていた

 

 

午前中、病院に行くよう勧め、行くことになった後

弟にラインをした

「余計なことだったらごめんなさい。脱水が心配だから病院に行かせた。たぶん入院になると思う」

 

 

弟には弟の考えがあるだろうし、一緒に暮らしておらず、電話だけでアレコレ言う

姉の存在は、鬱陶しいに違いない

 

ここの加減が難しい

 

 

 

 

 

 

 

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階段をおりるように

2016年04月24日 | おとうちゃん

 

土曜日は高校の役員会でした

日曜日どうしようか迷っていたのですが、疲れてしまい実家にいくのをやめました

先週は、土曜日出勤だったので、同じく見送りました

 

以前の記事で、両親とライン電話で話していると書きましたが

母がスマホのどこかを触ってしまったらしく、「音がならない」というので

3日間ほど電話を空けてしまいました

 

日曜の夜、固定電話で電話をしたら、

突然副作用が出て、食べられず、飲めず、まともに歩けず 目を離せない状態だと聞かされました

昼頃、弟から、ラインがあり、

その後

風呂場で転倒して、怪我をした

のぼせて、歩けなくなった

父が介護保険を受け入れ、ベッドを借りることになった

とお知らせがありました

 

土曜の午前中は元気だった

午後から急におかしくなった   と、母が言ってました

 

徐々に悪くなるのではなく、階段をストンと降りたように悪くなってしまったようです

「薬飲んでも、副作用が出ないんだ」と嬉しそうに話していたのは10日前

 

進行しているのか、副作用なのかよくわからない

 

母は「苦しい思いをする治療は可哀そうだ」と言います

父は「お父ちゃんいなくなると、お母ちゃん一人になってしまうから頑張る」と言っていました

 

 

家を2世帯に建て替える時、弟夫婦と多少のもめごとがありました

私が息子を産んで、実家に帰った時

「2週間くらいでかえってほしい」と、父に言われました

その頃、弟夫婦は不妊治療を受けていました

 

1時間で行かれる距離なのですが、お盆と正月以外はなるべくいかないようにしてきました

 

嫁に出た姉が、親の病気で頻繁に実家に行っていいのだろうか

こういうときの、小姑ほど煩わしいものはないんじゃないか

考えすぎています

 

今週は、お仕事で、紙芝居当番です

今日、紙芝居を読んでいて、過呼吸になりかけました

 

一番苦しいのは父なのに

娘まで病人です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日々是特訓也  

2016年04月14日 | おとうちゃん

父の病気がわかった後

弟が母にらくらくスマートフォンを持たせた

らくらくスマートフォン 起動画面の一番上に電話帳

その下に  1・2・3 と数字があり

1番 私携帯 2番 弟携帯 3番 義妹携帯

弟がここまで登録してくれていた

 

電話をかけることはできる

でも、受けることがなかなかできない

73歳の母

 

一度つながると、話が長くなっていまう

母は父のいないところで電話をしたがる

固定電話の支払いは親だけど、携帯の方は 弟

弟に迷惑がかからないよう

旅行中にラインをアップした

文字を打てるようになれるとは思えない

ラインの無料通話機能がつかえるようになってほしいだけ

 

ライン電話でかけるこがまだできない

ライン電話を受けることは、10回に1回くらい成功する

どうも

スワイプの感覚がわからず、そのまま切ってしまう

通話時間  0.01秒 とか

 

昨夜は、ビデオマークを押してしまい

テレビ電話状態

音声をまともに受信できずwwwwww 

 

「ビデオカメラの形の所を押して~」と叫んでも届かず

固定電話をかける

 

携帯と固定電話で w通話

 

向こう側から 父の大笑いの声

 

 

 

 

 

こんな感じ

 

 

 

 

それでも、毎晩 ライン電話をかけ続ける

息子が追い打ちをかけて、かける

 

慣れるまで、やめない

 

毎晩のイベントになり始めた

 

 

息子殿は パワーリフティング部に入ろうかと考えているそうです

運動部でも、キツクないそうです

 

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父の変化

2016年04月12日 | おとうちゃん

胆管閉塞と診断され、緊急入院となった時

父は、医師に「沖縄旅行に行きたい」と話し、3月27日が退院日になった

医師は「このまま入院させて、次の治療に進みたい」だった

 

退院日がわかっていての、入院だったため、母も安心していた

 

入院中、一度、病院に行った

告知前の父は

「もう80歳だから、仕方ない。俺はもう十分だ」と言って笑っていた

そして、4月・5月の 懇親会1泊旅行の幹事仕事を病院でこなしていた

 

行くつもり・行かれると思っていた

 

告知を受けたあと、沖縄に行った

父母は弟一家と車で来ていた

私と息子は電車(息子の電車練習もかねて)

 

発着ロビーで待ち合わせたとき、父は、ベンチに小さく座ってぼんやりしていた

いつでも先頭を歩く父の姿はなくなり、声も出なくなっていた

入院中の絶食から回復していないのか?

いや入院中の方が「勢い」があった

 

やはり、来年の予定がたてられない 告知は 父を打ちのめしてしまった

 

唇が荒れていた。 口内炎だと思ったが、二日前に転んだという話しだった

大した段差でもないところで、転んだ。

「骨折しなくてよかったねぇ。骨折してたら今日はなかったよ」

骨折に注意するよう父に話した

 

40歳まで農業をしていた

都内で農業をしている家はたいがい資産家で、不動産収入で老後をすごしている人が多い

 

だが、父の親族関係は非常に悪く、面倒くさく、相続で、父は住む家の土地を守ることしか

できなかった

 

耕す土地を失ったので、父母は、敷地内に小さい工場(こうば)を建て

中古の機械を購入し、加工の仕事を始めた

病気が発覚するまで現役だった

 

自営業の父にとって、社会的評価は地域の活動から得ていた

消防団・町会活動・町会長・民生委員・遺跡保存員などの活動をし、

今は老人会の会長とゲートボールの会長をしている

 

旅行中、父は何度も

 「気が楽だ。気が楽だ。俺はこんなに気が楽な旅行は初めてだ」

繰り返した

 

「何も考えず、誰かに気を使うこともなく、相談して了承を得る必要もなく

息子と娘の後をついていけばいい。こんなに楽な旅行はない」

 

「4月と5月の旅行は止めようと思うんだ」

なんで?

「幹事って大変なんだ。気を使うし、盛り上げるために話題をふったり。俺はもう

そういうことをする気力がない」

 

 

首里城の石段で、父は2度躓いた。それから私は父の傍から離れないようにした

弟夫婦にはまだ小さい子がいるので、追っていくのが大変そうで、うちの息子は

自分のペースで見たいものを見に、どんどんいってしまう。

到着して、少しテンションが上がってしまった母もやはり、先を歩いてしまう

 

父のペースでゆっくり歩き、時々話をした

 

父は糖尿病が進んでいて、3年前から、インシュリンの注射を自分でしている

そこまではできるのだが、その後、低血糖を防ぐため糖分を接種しなくてはならない

父はそれができなくなっていた

いつも、母は父のカバンに飴やチョコ、病院で出してもらった、ブドウ糖を入れている

旅行中は入っていないことが多く、私は、2度 ジュースを買いに走った

食事の時間が安定していないのもまずかった

 

それでも、卒倒することなく、無事帰ってこれた

毎日電話で話をしている

 

帰宅後、お土産を配るため、親しい親戚やご近所さん、同級生の家に行き

自分の病気についてカミングアウトをしたこと

 

老人会とゲートボールの仲間にも、話をし、「旅行には行かれなくなった」と話したこと

 

 

「ずっと黙っているつもりでいたんだけど、話したら気が楽になったよ。」

みなさん 80歳前後、何かしらやっかいな病気を抱えている

 

父の体調や年齢では、点滴の抗がん剤、放射線治療もできないそうで

先週から、経口の抗がん剤を飲み始めた

副作用が怖がっていたが、今の所、体調に変化がないらしい

 

「気持ち悪いとか全然ないんだ。」

父の声にいくらかハリが戻った

治療できること、副作用が出ないため、治療が続けられそうなこと

 

旅行中よりも、弾んでいる声が聞こえた

母の声も弾んでいた

 

だが、車の運転を禁じられ、それがさびしそうだった

 

 

 

首里城にて

 

 

水族館にて

 

 

 

どうか、お二人とも長生きしてください

親離れできない 娘は

お二人がいないと、人生の迷子になっていまいます

 

 

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遺伝子勢揃いの 沖縄

2016年04月09日 | おとうちゃん

 

飛行機に乗って、那覇空港に着いて、日焼け止めを塗った

 

那覇空港からレンタカーを借りて、首里城に行った

 

 

 

 

 

 

 父・母の休憩に付き合う息子

 (素晴らしい首里城の画像は公式サイトで見てください)

 

 

 

ホテルについて 記念写真をとった

 

 

 

夕飯は ホテルのバーベキュー 島豚を食べた

 父・母の分のご飯と肉は 7割がた 息子が食べた

食べかけの祖父母のご飯をためらうことなく、食い尽くした息子は、いい子です

 

 

父の還暦お祝い旅行いらい、20年ぶりに、同じ部屋で寝た

明け方 腰のあたりが、 フワッと暖かくなった

トイレに起きた母が、タオルをかけてくれた

 

翌朝母が笑って言った

「相変わらず寝相が悪いわね。みっともないから、タオルかけておいたよ」

 

 

2日目

ホテルで、モーニングビュッフェ

 

そこからの 景色

 

 日焼け止めを塗って

 

 

美ら海水族館で ジンベエザメを見た

 

 

 

水族館で 沖縄そばを食べた

 

 その後の予定を決めていなかった

美ら海水族館は 沖縄海洋博公園 施設の一部で

歩いて、エメラルドビーチに行かれることに、気が付く

30分歩くのは、父には辛そうだったので、公園内を周回するバスで移動した

少し曇っていたけど

 

 

日焼け止めを塗った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若いというだけで、美しい

 

 

この 差を 見よ !

 

 

 

 

 

父も靴を脱いで、砂浜を歩き、 波打ち際で遊ぶ

孫を眺めた

 

 

 

 

ブルーシール ソフトクリーム 紅イモミックスをみんなで食べた

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルに戻って

ステーキ屋さんに行った

目の前で、お肉を焼いてくれるお店の

ハーフコース

大人の雰囲気の、薄暗いお店

ジュースを頼んだら、ハイビスカスやフルーツの飾りが付いているトロピカルジュース

侍のような緊張感とナイフとフォークの技で、美しく焼き上げる様子

何もかもが、初めてだった 子供たちは ずっと緊張していて

目が真ん丸だった

 

 

3日目は、チェックアウトギリギリまで、ラウンジにいた

姪っ子の 砂遊びを眺めながら

話しをしたり、ぼんやりしたり

 

 

そして、日焼け止めを塗って、空港に向かった

 

 

 

 

留守番とーちゃんへのお土産は

泡盛の古酒と

羽田で買った

 

 

 

 

 

これ、マジうまかった

 

 

父に対して

色々思うことはたくさんあったのですが

思うことは、次回書きます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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色んな気持ち一時棚上げ

2016年04月02日 | おとうちゃん






行って来ます



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