『宗教とは何であるか、との定義を下すために、いろいろな定義があるが、もし被造物と造物者との交友であり、フェロシップ(交わり)であり、霊的・生命的な交通である、と定義づけられ得るとすると、雅歌は、なさにその実体である、と考える事ができる。もし我々の宗教行事や宗教生活の中に、いかに理解され自覚されているかは判らぬが、それが自分と神との取り引きであり、交渉であり、往来であり、交わりである、という意味合いが全然ないとしたならば、それは我々の持っている信仰なり宗教なりが、正しい意味合いにおける宗教であり信仰であるかは、もう一度考え直さねばならない。もちろんそれには他の問題があるが、我々は、世の中のお寺やほこらを建てて、線香を立てたり、花を入れ、焼香を立てたりして、いわゆる宗教行事の様に様々な営みを見るが、それを大胆に、厳密な意味から宗教行事とは見ない。一つの理由は、その中に神人の交わりがあり得ないと思うので、我々は大胆にそれを宗教とは(専門的な角度から)見なさない。広い文化的意味では宗教であるかも知れないが、我々は偶像を宗教とは見ない。宗教は、被造物、ちょうど母親のひざにある子供の様に、造り主である神のふところに抱かれて、悲しみや恐れや不安、悲喜こもごも、情緒を交換し、あるいは弱きを訴え、必要を訴え、そして上からの慰めの言葉を頂いたり、供給や満たしを頂いたりしてゆく、内的な、霊的な交友をもってその実体とする。もしそれがそうであるとしたならば、雅歌は私どもが考えている信仰とか宗教とかいうものの、大変大切な中心的主題を取り上げて、それを我々に教えんとしているほんの一つである、と見ることができる。』続く
蔦田二雄著『セキナの栄光』PP.129、130
蔦田二雄著『セキナの栄光』PP.129、130