蔦田二雄著「セキナの栄光」PP13~131部分
「そして一体、信仰したために平安が来たとか、宗教を持ったために満足や喜びが来た、とかいう様な事をよく聞き、また書いてあるものを見るが、本当にそのような宗教から来る喜びとか、平和・平安とか満足感とか、あるいは明るさとか確信というものは、厳密に言うと、この神との自覚的交友から来るものでなければならないし、それ以外から出てこない。そうした内的な、神との関係が、とぎれたり離れたりせず、一度つながってそれがずっと継続されているならば、その内的霊的な事実から、感覚の世界において平安とか、柔和とか、謙遜とか、確信とかが自然に湧いて来るのである。そうした内的な霊的経験の確かさなしに、宗教的平安や喜びや寛大さを求め様とすると、それは根のない木を砂の上にさして、いたずらにそのさした木の枝から、リンゴや桃やみかんの実を求めているのに等しいものであって、それは愚かなことであり、それは聖書に教える宗教とおよそ道が違うものである。」
インマヌエル宇都宮教会産 しいたけ
「そして一体、信仰したために平安が来たとか、宗教を持ったために満足や喜びが来た、とかいう様な事をよく聞き、また書いてあるものを見るが、本当にそのような宗教から来る喜びとか、平和・平安とか満足感とか、あるいは明るさとか確信というものは、厳密に言うと、この神との自覚的交友から来るものでなければならないし、それ以外から出てこない。そうした内的な、神との関係が、とぎれたり離れたりせず、一度つながってそれがずっと継続されているならば、その内的霊的な事実から、感覚の世界において平安とか、柔和とか、謙遜とか、確信とかが自然に湧いて来るのである。そうした内的な霊的経験の確かさなしに、宗教的平安や喜びや寛大さを求め様とすると、それは根のない木を砂の上にさして、いたずらにそのさした木の枝から、リンゴや桃やみかんの実を求めているのに等しいものであって、それは愚かなことであり、それは聖書に教える宗教とおよそ道が違うものである。」
インマヌエル宇都宮教会産 しいたけ
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