アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

志半ばにして道を絶たれる神

2016年07月14日 | 人間について
今朝、旧約聖書の出エジプト記4章を読んで、また新たな疑問が湧いてきた。

聖書はもう何年も読んでいるのに、読むたびにこれまで気にもかけなかった疑問が次から次へと出てくるのは何故なのかといつも思うのだが、その度に新たな見解や発見があるのはとても面白い。

今日の疑問はこれだ。モーセは自分の同胞、へブル人、つまりイスラエル人をエジプトから救い出す為に神からの大仕事を与えられ、彼は拒否反応を示しながらもエジプトに返ろうとしていた時、出エジプト記4章24節で突然、主はモーセを殺そうとされた、と記載されている。

聖書は前後の文章の流れに関係なく、突然、唐突な文章が出てくることが多い。何故そんなことになったのか、聖書ではわざわざ細かくその理由が書かれていることが非常に少ないので、聖書が私達にとって難解なものになっている原因となっている。この場合、聖書が書かれた歴史的背景や、聖書の中にある言葉を手掛かりに解読し、かつ、祈りによって神から与えられるインスピレーションが大事になってくるのであるが、人によって解釈が違うことが多い。何故なら、神様は人によって語りかけてくることが違うからである。

私はこの理由を、早速インターネットで調べてみた。すると、その理由はモーセの息子に割礼(男性の性器の包皮を切り取ること。創世記17章10節で、神は既にアブラハムを通して男子全員に施すよう命じている。旧約の時代は、神の命令は絶対で不従順は死を意味する。)をまだ施していなかったから、という、どれも同じ理由ばかりが書かれており、他の視点からの見解が見つからなかった。

確かに、それも理由の一つなのであろうが、不可解なのは、その前に神様はモーセに対してエジプトへ行って同胞を救え、と命じているのだ。その前から神は既にモーセの息子に割礼が施されていないことは知っていたはずである。既にこの様な比較的小さなことに対しても不従順であったモーセに対して、何故このような大仕事を命じたのか?小さな命令にも従えないのに、何故、大きな命令をいきなりモーセに下したのか?また、最初から彼を殺すつもりだったのであれば、そもそも何故、このような任務を与えたのか??これに関する解説や回答は、残念ながらどのサイトを探しても見当たらなかった。

しかし、祈ってみたところ、ある見解が与えられた。それは、神はこの世の理屈とは全く相反している、ということである。この世の世界では、例えば会社の仕事において、小さな仕事もきちんとできないのに、大きな仕事を任せられるわけではない。小さな約束も果たせないのに、大きな約束など果たせるわけがないのである。ところが、神の見解は全く相反しているのである。

聖書で書かれている通り、私達人間は罪を背負って生まれる。そしてその罪は、十字架にかかったイエス様を信じない限り、永遠に帳消しにはされないのである。また、イエス様を信じたからと言って私達の罪が突然なくなるわけではない。肉体がある以上、罪を抱えて生きているわけであり、その罪と葛藤しながら、神様と共に歩むのである。

イエス様を信じている者でさえ、日々、自分達が気づかない所で多くの罪を犯していることがある。その罪が大きいか小さいか、は神様にとって関係なく、大小に関わらず、罪は罪なのである。その観点から考えると、神様がモーセにあのような(この世的な観点から見て)大きな命令をいきなり下したのは不思議ではない。そして割礼が施されていなかったという(この世的な観点から見て)比較的小さな罪が後からやってきて、命取りになるということもあり得ることなのである。

つまり、神様の御心が示されていても、その道半ばでも突然、志が絶たれることはありうるということなのである。よく、道半ばで亡くなる方もいるが、これは罪の結果、死に至ることもあり、私たちは日々、本当に神を畏れて生きる必要がある。勿論、全てにこの理由が当てはまるわけではない。全く別の理由で神様がその人を突然召されることもある。私達の命は神様のものであり、神様が良かれと思えば私たちの命は明日にでも失われることがある。

モーセは幸い、殺されることを免れたが、死というのはこの様に突然やって来ることがある。5年間に起こった東北大震災などが良い例であろう。いつでも神様に召されてよいように、私たちは毎日神を仰ぎ見、悔いのないように生きていく必要があると感じている。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。