夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

『有限』即『無限』 ・ 『極微』則『極大』の瞑想・・・普く我が全身を観ずるに此の身この儘、大宇宙に満ちる普賢菩薩なり(観普賢菩薩行法)。

2019年04月06日 14時54分53秒 | 真理の言葉
昨夜の御前1時30分にふと目が覚め、

直ぐには寝付かれず、枕もとのスマホでニユース記事を見ていると、

皇太子殿下の『水運史から世界の水へ』の御本が4月4日発売との

記事を見当たり直ぐAmazonで注文しました。

Amazonでベストセラーになっていました。

去年、水に関する講演会記録を読まさせて頂いたことがありますが、

水に関することはもちろん、災害、環境問題、民俗学、歴史学

又あらゆる学問にも深い御造詣があられ、また御慈愛に溢れた御文章に感動致しました。

昨夜は不思議な出来事でした。




『肉体と云う制約された有限の世界』そのままで『永遠なる無限世界』を生きているのが私達である。



本来、人間は死ぬこともなく、無限であり、

遥かなる虚空に満ちている霊身であり如来であり、普賢菩薩であり、観世音菩薩であり、キリストであり、

全ての処に変化して現れ、顕幽をかけめぐる『大自在身』である



言葉だけでは画に描いた餅に過ぎないものとなる。


眼にみえるもの、耳に聞こえるもの、鼻に匂うもの、舌に味わうもの、身体に触れるもの、

意識に顕れるものの『六塵』に執着することがなければ、そのまま『正覚(さとり)』となる。
             
今を生きるに、本来『六塵』と呼ばれ得るものもなく、

また『正覚』と呼ばれ得るものもない。

三祖僧璨(さんそそうさん) 『信心銘』



ありのまま真実の姿をありのままとして自覚することができなければ『六塵』と呼んでも、

また『正覚』と呼んでも、それは言葉だけの画に描いた餅に過ぎないものとなる。

金剛経


心を観るには、心で観る他はない、

その『妙明心地』に至れば六塵もなく正覚もなく、

ただ『不可得』としか言いようがない。

『主観と客観』、『主体と客体』とが未だ別々に分かれる以前の

『今、則において働く心』こそ『本質』である。

道元禅師 正法眼蔵

『注』

妙明(みょうみょう)・・・すぐれた真実の知恵。

心地(しんぢ)・・・戒め。菩薩の10地の50心を指す。

不可得(ふかとく)・・・認識され得ない。その存在が知覚され得ない。

          確定的な本質のないものについて求めても得られないこと。

          ものの自体が存在するという執着のなくなること。

          現象世界は実体がなく空であり、夢、幻である。




神の御言葉は光である。すべてを照らし、迷いの暗黒より救い給う。




パウロの言葉に・・・もはや吾れ生くるに非ず、キリスト我れにあって生くるなり

      



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