眞の自由
醜い煩悩が付きまとうのが世の常でありますが。
この煩悩から抜け出し眞の自由はを得るには如何にすべきであろうか。
眞の自由を獲得するには、自己を放棄することが必要である。
自由を得んとしてもがけばもがくほど奈落の底に落ちていくあり地獄のようなものである。
眞の自由は十字架(自己否定)と復活とのみによって得られるということをキリストは教えたのである。
『みこころならばこの苦き杯を吾より放ちたまえ。されどわが意を為さんとには非ず』と
イエスはゲッセマネに於いて祈っているのである。
このゲッセマネの苦悩ののちイエスは敢然として自己を神のみこころの中に投げ捨てたのである。
かくてイエスには『此の世の創めぬ先より神とともに有たりし栄光』が復活したのである。
何故『自己を棄てなければ眞の自由が得られないのであろうか。
それは『自己と』と思ったところのものは、眞の自己ではなく、業の流転であったからである。
『自己』という仮面をかぶった、業の潜在力が、『眞の自己』(神性)を引き摺り回し、その自由を奪っていたのであったからである。
先ず人は真に自由を得るには、業を本質とする此の仮面をの『自己』を克服しなければならない。
『自己』に打ち克ったとき、人は自由である。
だから眞の自由をかち取るには、自己を放棄して神に無条件に一切のものを委ねることである。
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煩悩そのまま悟りなり
唯物論者には復活も生まれ変わりもないのである。
すべて我々の見ている世界は、自分の心の見る世界である。
唯物論者の心にはそれだけの世界しか見えざるなり。
自分が仏になって見れば見られる世界が悉く仏の世界に変貌すれど、仏にならぬ人には此の世界は穢土である。
自分が仏になれば、恋すれどもそれが其の儘、天国浄土の姿なり、
自分が仏にならねば恋はただ煩悩なり、肉欲の化身なり。
赤い眼鏡を掛けて見れば赤く見えるなり。
青い眼鏡を掛けて見れば青く見えるなり。
その人々の力量なり。
みずから仏となるとき此の世界は眞清浄、無垢の天国浄土なり。
煩悩と見えるものその儘に菩提なり。住む世界悉く美しい 巌飾せられたる仏の浄土なり。
先ず自分自身が生まれ変わることが必要なり。『七度を七十倍度び赦せ』とイエスは教えたり。
されど赦す罪もなしと知ることこそ最後究極のさとりなり。
『注』
穢土―・・・けがれた不浄な国土。苦悩満ちた現実の世界。
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