グルメストアフクシマのブログ

男鹿にある大正七年創業の
お肉とお惣菜のお店グルメストアフクシマ
(有)福島肉店スタッフのブログです。

日本で最も歴史のあるコロッケ!?フクシマのコロッケ

2023-02-25 08:16:09 | コロッケ

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。
ご覧くださっている皆様、ご利用下さっている皆様、いつも本当にありがとうございます。

創業から今年で105年目となりました。これまで書いたブログ記事を整理しながら振り返っていましたところ、フクシマのコロッケに関して11年前に書いた記事をみつけました。当時と今では自分の持つ情報量に差があり考え方も異なりますので、以前の記事はそのままにして、それをベースにコロッケに関して更新してみたいと思います。

【フクシマのコロッケを軸に当店の歴史をまとめた記事】になります。

ちなみにタイトルの写真は、2009年の5~6月頃(秋田に戻って数日後)ホームページを自作で作る際、商工会さんの専門家派遣を活用させてもらい撮影してもらったものです。

さて、早速、コロッケの歴史のお話ですが、明治後期生まれの創業者福島秋太郎は、創業前に何をやっていたかの話に遡ります。
創業の大正七年以前は、秋太郎は調理師であり成城学園の調理学校の講師でした。後述しますが、明治期にヨーロッパから日本に伝わったクロケットがこの頃じゃがいもの「コロッケ」として進化を遂げ世に普及し始めたタイミングでもありました。料理の指南書をいち早く手にすることが出来たのも江戸時代からの家系の話にもなるのですが武家の出であったことも関係あるようです。
コロッケ作りをしていたのは、この調理学校の講師の時代だったことを考えるとコロッケの歴史としては、少なくても今の時点で105年以上となるといえます。元祖とうたわれているお店のどこよりも歴史があり、文献を見渡しても今のところフクシマのコロッケが最も歴史あるコロッケということなのでございます。

2011年くらいにも祖父が亡くなったことで色々調べどこよりも歴史があることを認識しだしました。もっとちゃんと調べたり自社の歴史もしっかり調べたり自分達の核がしっかりしてからと思って、あちこち情報を追って10年以上経ちます。

そうして時間も経ちましたが、今のところ、ネット上でも文献を見渡す限り、フクシマのコロッケは最も歴史のあるコロッケと認識しております。紡いできた先祖や関わって下さった多くの方、お客様に改めて感謝の想いです。

自社のコロッケの歴史を世の動きも併せて紹介しながら自分達の想いもお伝えできればと思います。

さてのさて、このフクシマのコロッケは
創業者福島秋太郎が考案し作りはじめたものですが
これまでどのように続いてきたかというとちょっとしたストーリーがあります。


明治から大正中期の当時、日本でコロッケといえば特別な洋食屋さんで食べる事の出来るフランスから伝わったクリームコロッケが主流。明治時代は呼び名もまだクロケッツの時代です。

秋太郎は、この頃若くして喉に違和感を持ち病院に行ったところ、治す方法としては豚の甲状腺を煎じて飲むのがよいと帝大の大学病院でいわれたそうです。今の東京大学の大学病院なわけですが、当時は東洋医学の考え方も大切に判断されていた時代。そして、この持病がきっかけで当店は創業されます。つまり、豚の甲状腺を得ることが出来る仕事を考え、

調理師学校の講師から、持病を治すため肉の仲買人になり肉屋がスタートする事になったのです。

このような背景があったので、自分の「いのち」をながらえるため、この「いのち」を大切にという精神が、弊社、僕ら福島家の芯だと考えています。もしかすると、病気がなければ肉屋ではなく秋田とのご縁もフクシマのコロッケの存在も無かったのかもしれません。

 

それが大正7年の事ですが、大正中期、世は西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布していた真最中。明治時代に入ったものが日本の中で化学変化を起こし、都市を中心とする大衆文化が花開いていた時代です。

食においても西洋の影響を受け日本独自のものに変身しはじめたものがありました。その代表にコロッケがあげられます。

コロッケの起源などに関しては後述しますが、秋太郎は当時ビフテキやとんかつ、オムライスよりも高価であったコロッケを、じゃがいもとお肉を中心にした手に取りやすい価格で庶民に広めた肉屋の一人であったといえます。

明治期は付け合わせの料理でしたが、コロッケはごはんのおかずとして千切りキャベツの横に添えウスターソースをかけて食べる、という提案をしておりました。

創業と同時に呼び込みのために店頭でコロッケを揚げ始めたというのは、コロッケの唄によるコロッケブーム(詳しくは後述します)が始まった時とも重なりました。店頭で揚げたて販売をするよりも以前から、コロッケは作り続けておりとても人気があったそうです。

創業者秋太郎と妻ハナ(五城目出身です)

▲武蔵小山商店街の皆様の中で(前列左から3,4が夫婦で、秋太郎が手をかけている子が2代目基良)

文明開化により明治期に多量に入った西洋の様々なものが、明治後期から大正期に自由に融合変化を起こし、コロッケ以外にも様々なものが庶民のものとなっていきました。昭和初期にコロッケが全国的に広まった背景には前述した通り肉屋の存在も大きかったようです。

創業者秋太郎の場合は、好きであった調理を活かした点と流行をいち早く取り入れた点、安価で出せるようにラードやお肉の端材を活かしきった点、親しまれる努力をした、という点で、現在も大切にしたいと原点であると考えております。

コロッケの起源と日本での普及

コロッケの起源を辿るとフランスの「クロケット」に由来するという定説にあたりますが、フランスの1740年の初出文献よりも、英語の文献に登場するのが1706年と34年の間がある事、オランダやイタリア、スペイン、ポルトガル、エジプト、その他の国にもクロケット、もしくは似た料理として存在していたため、起源は明確とはいえません。ちなみに英語の初出文献は、Phillips(フィリップス)という調理方法を紹介した本です。

いずれにせよ、日本の江戸時代には世界では存在しており、日本に初登場となるのは明治に入ってからのようです。最も古い記録を調べると、(明治5年)1872年に出版された「西洋料理指南」に「ポテトコロッケの作り方」が載っています

じゃがいもは安土桃山時代にオランダより長崎に伝えられたという記録があります。この時のオランダ船の荷物は、ジャワ島から運んできていることから「ジャガタラ」と名付けて呼ばれていたことから、オランダから運ばれる芋ということで、ジャガタライモとなり、短く言いやすくジャガイモと呼ばれるようになったようです。安土桃山時代は、甘みのあるさつまいもに人気があり、普及はしなかったようです。ちなみに馬鈴薯という呼び名は、じゃがいもを畑から掘り撮った時に、馬につける鈴が薯のようにたくさんついている様子から、漢字で「馬の鈴のような薯」という意味で馬鈴薯という呼び名がついたとされています。

 じゃがいもの収穫量とコロッケの関係性は非常に深く、じゃがいもの収穫量とその年代を照合するとコロッケが普及し家庭に浸透した時期と重なりあいます。大きな伸びは昭和に入り記録されておりますが、最初の動きは明治20年に初の10万トン代、その後徐々に収穫量を伸ばし大正5年には、100万トンの大台を記録。昭和11年には200万トン、昭和56年には370万トンを越える収穫量を記録しております。ここ数年は240万トンくらいを推移しています。

ジャガイモのコロッケは古くから、ヨーロッパ各国にみられる古典的な付け合せ料理であり、こちらも起源を特定するのは困難ですが、明治時代の文明開化の中でフランス料理やイギリス料理の一つとして日本にもたらされたものと考えられています。

明治28年(1885年)の女性誌『女鑑』の家政の項目「だいどころ」という料理紹介の記事には、このクロケット(「仏蘭西コロツケ」と表現)をクリームコロッケとして、ジャガイモを使ったコロッケと対比して、それぞれ別の料理として書かれています。

明治40年頃より東京銀座の洋食店などで、クリームコロッケが登場していますが、当時はあくまでまかない料理であり、お客さんに出していたお店はそれまでなかったといわれています。

当店創業の大正7年(1918年)の1年前の大正6年当時、前述した通りですが

洋食の豚カツは13銭、ビーフステーキは15銭だったのに比べ、コロッケは25銭と高価な料理でした。

当時の大工さんの1日の手間賃平均が3円なのでコロッケ12皿分ともいえます。これを現代において考えると日給が仮に6000円だとするとコロッケは1個500円という価値です。このコロッケがどのように普及していったのか、コロッケの唄も大きな役割を果たしています。

「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ♪」という歌詞の「コロッケの唄」の大ヒットです。これは、益田太郎冠者の作詞で帝国劇場で上演された『ドッチャダンネ』という笑劇中の一曲で、コロッケが知れ渡り徐々に家庭にも登場するようになります。その大きな助けとなったのが、肉屋のコロッケであり、多量に生じる肉の端材や揚げ油に使えるラードなどの活用でが、より安価に提供でき庶民に馴染みだした、という背景があります。

そしてここに、当店もいたという事になるわけです。

初代秋太郎の人間像にも少し触れますと、幼少時のエピソードとしては、お地蔵様に立ちションをし、下半身が腫れあがったというものが有名です。

このあたりで当時を知る方からは、仕事が早く頭がキレる江戸っ子風情漂う人だったときいておりますが、いわゆるべらんめい調の語気が強い口調で、当時は驚いた方もいたようです。2代目の妻イヨによると、その強い口調に最初はおそろしい人にうつったようですが、裏表がなく気持ちのいい心意気の人だった、ともききます。

左 幼少時の基秋

 

▲こちらの写真だとのどの病気で大きく腫れているのがみてとれます。(サワキ写真館さんの文字も刻印されております)

昭和30年代半ば 基秋と 左は2代目基良(僕の祖父)の姉はなこさん(加賀谷さん)

創業時の写真や2代目の幼少時の写真が数多く残っており、写真に価値を置いていた事は考えられますが、新しいものが好きで流行のものにはお金をかけていた面も多々みられます。

昭和12年(1937年)男鹿への移転時は、現在の船川は栄町通りにある加賀谷洋服店さんのところで営業しておりました。妻のハナが旧姓加賀谷で本家が船川にあったことが運びとなったようです。

数年後火事があり、仲買人時代にまわっていたつながりのあるところ(岩手や仙台、北海道も候補地であった)
へ移転する事も考えたそうですが、まわりの方の助けを頂き、丁度現在地の土地が売り出されたタイミングもあり、元浜町の現在地へうつったようです。写真は丁度そのころ、第二次世界大戦がはじまり、加賀谷さんのご主人が出兵時のもので、洋服店として既に開かれております。

こういう時代▲ 「船川美人」としてとりあげられている戦前の写真集「船川案内」より。やーすごい。

 

コロッケストーリー 昭和

2011年の1月29日(肉の日に生まれ肉の日に逝く)に亡くなった祖父の葬式の際集まった親戚や祖母に福島家の歴史やコロッケの事等色々聞きました。
「フクシマのコロッケ」は、単に「ころっけ」として販売していたようです。フクシマのコロッケと名乗るようになったのは、昭和50年代に入ってから。

初代の秋太郎が亡くなってからは祖父が受け継ぐのですが、当時は一度に500個分程作っていたので、祖父はよく「今日俺何時に起きてやってたと思う?」「3時からやってたんだーげへへへー」といった事をコロッケを作る時は毎回言っていたようです(笑)

そんな祖父の赤ちゃんの頃~若い頃

船川第一國民學校の文字 船川第一小学校のことで、現在の市役所に位置し、中川公園のところに新しい校舎が増築されたタイミング

二代目 基良の時代は、(初代からの話ですが)レシピはなくて、決まった材料の使用量目安はあっても

味は勘と経験で決めていたため甘い時もあれば塩分の強い時もあるなど
若干味にむらがあったようです。
パン粉は創業時から細かいドライパン粉で薄衣。
使用する材料や製法は昔ながらのものです。
昭和中期はこのような店構えで

入り口右側で揚げたてをご用意していたようで、今もその記憶があって小さな頃から楽しみに買い物に来てた、とお話下さるお客様もいらっしゃいます。

▲祖母 イヨ あげている図 目の前でお客様がお待ちなってます。

右上の写真はコロッケのたねを混ぜている様子

昭和47年店舗改装時▼(1972年)

昭和47年(1972年)店舗改装時

1980年代 父が京からもどりデリカテッセン・惣菜製造を開始。コロッケの種類もたくさん増え今までのコロッケと見わけをつけるためネーミングを改めました。

それで「フクシマのコロッケ」となったのでした。

▲当時 いつもお店前や近所で弟と遊んでました。1987


煮込んだお肉をさらに挽き
玉ねぎはよーーーーーく炒め調味料をからませた後に煮込み挽いたお肉をさらに炒め玉ねぎとからませ
茹で上げたアツアツのじゃがいも挽いて時間をおかずすぐに混ぜ合わせる、
基本的に製法は変わりませんが販売日は祖父の代は曜日限定だったり毎日ではなかったようです。
 
僕が生まれて最初にコロッケに携わったのは小学生の頃、学校から帰るとじゃがいも洗いや皮むき、お肉も運んだり手伝っていたのを思い出します。バイトのお姉さんより早くじゃがいもの皮をむくのが自分の中のルールで、じゃがいもの皮を早くむける男は最高にかっこいいのだと思っていました。そして店の手伝いは非常に面白かったです。ちなみにそのバイトのお姉さんが、今社員として2010年頃から長年はたらいてくださっています。

この頃父はコロッケ作りをスムーズに行う為の仕組みを作り上げます。

時期によって変わる野菜の持つ甘みを調整するためその時変わる硬さは水分含有量、それらに対するボイル時間や歩留まり、最終的な総量、毎回色んな計測をして数字にする作業を重ね、基準となる季節変動レシピが誕生したのでした。

といっても調味料で甘みを調整する量くらいで、塩の量は固定、あとはじゃがいもや玉ねぎの様子見で使用する量を変えるというもの。企業秘密でも非公開でもないですが、父が積み重ねた努力を簡単に公開するのも気が進まないので

こういう数字になってます。というのは控えます。ただ、使用する材料や分量なんかは公開してます。



1990年代 母はパン粉大臣に就任します。

祖母がつけてきた揚げ物のパン粉、むらなく、とろがつきすぎずうすすぎず、を受け継ぐのですがこれまた奥が深くものにするためには非常に時間がかかったと聞いております。
まだ毎日販売ではない時期、コロッケの日 というのがあったのですがその日はいつもきまったお店に外食に行くのでした。夕食を作る体力は誰も残っていなかったのでしょう。
1996年前後、
フクシマのコロッケを毎日でも食べたい、と言って下さる方がいらしたり、販売頻度を高めてほしいとのお声も多く頂いておりました。

そういったお客様のお声にお応えし毎日販売するようになりました。

▼それくらいの時、今の外観に改装した時です。輪郭は残っていて、中に入ると部屋は昔のままだったりします(笑)

それくらいからたまーにテレビや新聞、ラジオでとりあげてもらう機会が出てきて、

うちのコロッケてそういう取り上げてもらったりするようなものなんだなーと認識しだします。

中学、高校と、たまに持って行って友人達に食べてもらったりしたもんです(宣伝してたwww)

大学生になって初めての仕送りをもらった時、既にホームシックだったり早速都会の洗礼を受け色々弱っていたタイミングだったので、そこにコロッケが入っていて口に入れた瞬間無条件に涙あふれ、その場で崩れ落ちひたすら食べた事も懐かしいです(笑)

2004年頃にはmixiというSNSのさきがけみたいなサイトで

学生時代「グルメストアフクシマ」を勝手に作ったのでした。ネットにあがったのは、一応これが初めてだったかも。

社会人になった時もいつかは戻ると思ってたのですが、結構思ったより転機が訪れ、迷走した末

2009年のはじめに決断し、5月19日に戻り

福島肉店に就職したのでした。そうして、そこからは一緒にお作りしております。

そこから今までの歴史を振り返るとまた色んな人が登場し色んな事がありますが割愛し一旦しめます。

 

フクシマのコロッケは、色んな部分で繊細で、やはりパン粉つけのところは難しく

母が最も安定してスピードも速いし綺麗です。

使用するお肉、塩、じゃがいも、玉ねぎは「できる限り地場産地場消費、できる限り安全性の高い食材を使用する」という信念に基づき材料の配合は変えず使用する材料の種類のみ変更してきました。
例えばお肉はりんごで育った信州牛→秋田錦牛
じゃがいもはできる限り農薬を使わないもの、かつ男鹿産。
塩・・・男鹿工房さんの男鹿の塩

最近はこちらのコンドウダイスケさん、船橋陽馬さんに撮ってもらった写真を使っております。

さて、だーーーーっと文章を書き続けてきて、読み手の事を考えずにとりあえず投稿しますが(後程読みやすいようなおしたいと思います)

コロッケを中心に当店の歴史も振り返りました。

改めて、原点を大切により喜んで頂けるよう勉強し続けわたし達も成長していけるよう励みたいと思います。

 

 



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